2016年3月30日水曜日

神の声 または ちあきなおみ


「神の声」

 

セレンビリティーとよく使われているその意味は、

科学者が仮説を立て、論理に沿って実験をする。が、いつまでも仮設通りにならない。

実験は失敗の連続である。

仮説が間違っていたか?実験の方法が間違っていたか?思案するが、答えが出ない。

ある日、ふと、仮説は間違っていない、実験結果も失敗ではない。と脳がつぶやく。

調べると失敗した実験結果から思っても見なかった細胞が出来ていた。

その細胞の研究をすると新しい発見があった。これは良く聞く科学者の発見談である。

左脳・論理で進めていくが、一歩前に出た行動の結果は思うようではなかった。

だが、そこに新発見があった。新発見する右脳があった。

論理よりふとしたつぶやきに世界を俯瞰する目があったということである。

(セレンビリティーは、一歩前に出る行動の結果が、意図したものでなくても、新しい良

き結果が得られると教える。啓蒙主義の時代、若者に行動せよ、そして新たな事に思案せ

よ、さすれば新しい考えが起こる可能性が大きいと教えたのです)

「なめらかな社会とその敵」を書いた鈴木建の先生は、彼の研究資金の提供の理由に「彼

の言っていることは解らないところがある」と言って、資金を増額したという。

たいしたものだ。

解っていることは、既存の論理内に有り、解っているのでつまらない。

解らないことに未来性があると踏んだのだと思われる。

左脳が決定するのではなく先生の右脳が決定したのだろう。

それは、小説家がプロット通りに小説を進めていっても良い物は出来上がらず、途中何が

何だか分からない手に導かれて書いた物に、傑作が現れ得るということと同じではないだ

ろうか。良く言う誰かに書かされている状態である。天から降りてくるとも言われる。

右脳が左脳を使っている状態だろう。

「なめ敵」によると、ギリシャ以前には人類は意識を持っておらず、心は二つに分かれ

ていたという。

「およそ3000年前までは、人類は意識を持っておらず、右脳から響く「神々の声」に

したがっていた。心は基本的に2つに分かれていて、左脳は右脳の指令に従っていた。そ

して左脳が聞く右脳の声は、神々の言葉として受け取られていたのが、3000年前に言

語の発達によって意識として統合され、神々は沈黙した」と言う。

「左脳は右脳から響く神々の声に従っていた状態」であるという。

ソクラテスのダイモンの声である。

また、神は、声として存在し、形象として存在するわけではなかったという。

芸術家はこの右脳の働きによって、為すべき仕事が出来る。

左脳は構築・統合することはできるが、神の声は聞こえない。

農耕牧畜生活では、左脳有利に物ごとを図っていた。

その為世界は,蓄財できたが、人々は、執着気質となり息詰まる思いを抱いている。

左脳有利となる世界を構築してしまうと、人は右脳の声を聞きたくなくなるのだろう。

一つづつ進んで行く左脳の性格は、飛躍した意味不明の言葉に驚かされたくない。

気配の察知や、殺気からの逃避や論理で説明できなものに価値を置かなかった。

弥生時代から続いた数千年で、人類は右脳を抹殺してしまったかに見える。

鈴木建は、左脳右脳が分離した状態が常態で、分かれた人,分人民主主義を唱える。

そして、「世界の多様性を自らの中に取り込み、自己の多様性を世界にさらけ出す。その

ループの中から、もしかしたら新しい知性が生じるかもしれない」と書く。
 

昨年は、知性は6000年前の状態がピークであったと研究結果があった。

その時代は狩猟採集時代のことである。右脳の神の声が聞こえた時代だ。

狩猟採集者は分裂病親和気質と中井久夫先生は述べる。(ちなみに農耕牧畜民は、強迫神

経症親和気質という)分裂病とは左脳・右脳とこころが分かれている状態だろう。

中井先生は30年前に、分裂病の研究結果から、「分裂病と人類」という名著を書きあげら

れた。狩猟採集者気質の今日的意義を書いている本である。

意識は分裂していて当然であって、統合することに間違いがあるという鈴木建の言う分

心の考えには大いに納得するものがある。

意識の統合は、農耕牧畜者が「責任の所在」として植え付けたという。

率直に考えてみても、自分の考えも、行動も、想像も、感覚もその場によって変化し、相

手によって変化する。

読書すれば、影響され、風が吹けば流される。

そのままでよければ多様性は担保される。

 

先日、コーヒーショップに入った。

表には「会議も、打ち合わせも遠慮願います」と張り紙がある。

3テーブルの内2テーブルに予約とあり、一席空いているので座ろうとする。

店の若い主人が出てきて「今日は予約でいっぱいです」と断られた。

人嫌いのようだ。

人嫌いであるから喫茶店という商売が出来るのか。

素敵な人だけ来てもらえればいいのだから。

一時、なんだかなーと思ったが、そういえばぼくも人嫌いで人好きなので、抑圧しないで

おおいに人嫌いを通せばいいんだ、と納得する。

分人民主主義の多様性とは、嫌人主義も認めることだろう。

 

狩猟採集気質は、気配を察し、全体像を直観し、透視力を持ち、類推力があり、同定する

能力に優れていると、民族学の岩田慶治は述べる。

しかし、大人数の共同生活が苦手で、人的ストレスに弱いのだ。悲しい定めである。

その為か狩猟採集者は、弥生時代から漂泊者としてただようことになった。

右脳有利の漂泊者は、その性格から神の声を聞くシャーマンとなり、巫女となった。

芸能者の出自は、彼らから変遷していった。

 

昼ごはんを食べながら、今日は歌曲を聞こうと、色々なCDを取出した。

ちあきなおみにしよう。CDをかけ塩サバなど口に運ぶ。

何曲かの後、「祭りの花を買う」という歌が流れてきた。

ゆっくり聞き込む。

この歌は、何のことはない、タイトル通り花を買うと歌っている。

何度も聞いた曲だ。だが、歌に引き込まれ、目頭が熱くなる。

彼女の心に残る数曲には良くある現象だが、この歌は、ただ花を買うだけの歌である。

彼女の魂全体が乗り移った声、だが、静かに歌っている。

大きな声で歌うわけではない、どちらかというと小さい方だ。

場面に応じて声が変化する。

しみ入る。

この歌に、どうしてこれほどの情念をつぎ込み、全身全霊で歌えるのだろう。

そして、ちあきなおみはどの歌にも「さよなら」という感じがある。

日本の歌謡曲の中では、図抜けた表現力の彼女である。

巫女さながらに、歌詞が造形した主人公になりきる。

憑依したようである。

夫のお葬式の棺桶に抱きついて、私も連れて行ってと泣き叫んだそうである。

「喝采」は、別れた彼のお葬式の歌、実際の話だと言われている。

もう十数年表に出ていない彼女に復帰を期待する声と、アルバムのセールスが依然好調

だそうだ。

「右脳」で歌唱するちあきなおみは、

「わたしは、どの曲もこれが最後のつもりで歌っている」と言ったそうだ。

今生の別れと歌う歌なのだ。

こころにしみ入らないわけがない。

そんな彼女をバラエティー番組に誰が出したのか?

 

「赤とんぼ」では、今日で店じまいの居酒屋のおかみとなり、常連客との別れの哀切を歌い。

「ラ・ボエーム」では、かつての若き思い出である絵かきとの生活を慕情たっぷりに歌い切る。

「ねえ、あんた」は、少し足りない娼婦とひもとの非情に泣き。

「アコーディオンひき」では、死んだアコーディオンひきと同じような演奏をするあたらしいアコーディオンひきに、もうやめて!引かないで!と叫んで終わり。

「黄昏のビギン」は、水原宏の難曲を情感を込めて歌った。

「朝日の当たる家」では、狂ったように歌い出し、妹に、私のような娼婦にならないでと歎き終わる。

 

自分の持ち歌、演歌、シャンソン、ファド、ジャズ、そしてさまざまな歌手のカバー曲、

簡単には、選曲出来なかっただろう。

何回も歌ってみて、自分の声が出る歌を選んだのだろう。

そのどれもが、聞き込めるのだ。

聞き込める密度をもっているのだ。

ちあきなおみの魂が歌詞の主人公に成りきり、聞く者の胸に浮遊してくる。

神の声を持つ右脳の働きは、このように表現者の気質によって現れる。

中井久夫は、分裂病と人類の中に、

「狩猟採集気質、(または右脳優先者の人達)が、執着気質者があふれるこの生きにくい

世界に存在するのは、人類にとって必要なのである。人類とその美質の存続のためにも社

会が受諾しなければならない税のごときものである。隠れて生きることを最善とする彼ら

は、非常時にはにわかに精神的に励磁されたごとく社会の前面に出て、個人的利害を超越

して社会をになう気概を示すことが、度々発見される。そして、右脳優先者が人類に必要

であるのは、人類にとって希望であるからだ」という。

 

ちあきなおみは、心のうぶげをなくしたのかもしれない、過酷なメディアの中で、疲れ果てたように感じる。

私たちは、彼女の歌を聴いて、涙して、こころが浄化される。

彼女は、シャーマンや巫女のように、ひとびとの荒ぶる魂を鎮め落ち着かせる「神の声」として、我々の前に未だ存在している。

 

 

                近藤蔵人

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