2017年2月24日金曜日

良寛の謄謄任運


良寛は、終生、のろまだ、バカだ、気が違っていると言われ続けてきた。  

思うに、5人いれば、一人がまあまあ良識的で、後の4人は、癖のある性格をもっている。性格破綻者とまでいかなくても、危機のとき同じことを繰り返したり、何か言われたら同じ不可解な態度を取ったり、それを自己認識することは難しく、そのたびにいさかいが起きる。ほとんどは、家族制度や社会制度によってつくられた性格だろう。僕がその一人なのでよくわかる。

また、中には、遺伝された個性的な性格もある。良寛はその遺伝性格でのほほんとし過ぎたのだろうと思う。

そのせいで良寛は、性格悲劇をもつものとして、バカとか狂人と言われた生涯だった
しかし、その位置にのみ芸術の創造エネルギーがあることも確かだと思われる。良識から芸術が生み出されることは困難なことだ。

 

 

良寛は、岡山県玉島の曹洞宗円通寺で師匠、国仙老子に修行完了の印可を授けられます。

「良や愚の如く、道うたた寛し

謄謄任運、誰をえて看しめん

為に附す山形爛藤の杖

到る処壁間、午睡のびやかなり」  と、偈をさずかります。

      良寛や、愚の如くみえるが、道は広く通じている。

           みごとな生きざま、謄謄(のほほんとした)ぶりは、
誰が知るだ    誰が知るだろう。
 

      
 
るだろう。

    為に附す、山から取ってきた折れ曲がった藤のつえを記念にやろう

 良寛や、これからは至る所で、壁に寄りかかって昼寝ができ、のびやかに生きれるぞ。


師が亡くなると、11年修行した34歳の良寛は寺を離れ、乞食の旅に出る。

この偈を読むと、越後の寺から付いてきた国仙老子に心酔し、また、老子も良寛を理解しかわいがっていたのが感じられる。 

良寛が越後に少年時代を過ごしていたころは、学問好きではあったが、昼行燈とあだなされ、いつもぼんやりしていたようだ。18歳で尼瀬にある曹洞宗の光照寺に出家し、そこで国仙老子に会っている。老子亡きあと、代わりの住職が来ることで、円通寺を飛び出した。

越後に帰までの、良寛の足跡は、後日和歌によって知ることができるが、江戸の国学者、近藤万丈の著書の土佐の旅に、

「高知の城下から三里ほど手前を歩いているとき、突然雨に降られた。粗末な小屋に雨宿りのために駆け込むと、青白く痩せこけた僧が囲炉裏の前に座っていた。「雨宿りのために泊めてほしい」と頼むと、その僧は「食べ物も寝具もないが……」と言ったが、「雨さえしのげれば何もいりません」と無理を言って泊めてもらった。その夜、僧はほとんどしゃべることがなく、何か話しかけても静かに微笑むだけだった。はじめに口をきいただけで、後は一言も言わず、座禅するでもなく、眠るでもなく、念仏をとなえるでもなく、こっちから話しかけてもただ微笑するだけで、狂人かとも見間違うばかりだった。

翌朝、僧は香煎(こうせん/煎った麦の粉を湯で溶いたもの)を作って食べさせてくれた。食べ終えてふと机の上に目をやると、そこには『荘子』が置かれていて、本を開いてみると達筆の書が挟み込まれていた。あまりの書の素晴らしさに「この人はただ者ではない」と感じて、二本の扇子を指し出して賛を頼んだところ、僧は鶯と、富士の絵を描いてくれた。絵の端を見ると「かく言うものは誰ぞ、越州の産・了寛」と記されていた。」とある。了と書かれているが良寛だと言われている。

禅宗では、寺の修行の後に、乞食のたびに出ることはその後の修行としてよくあることと言われるが、初めての一人旅の孤独はいかばかりであっただろうと、良寛を想像する。

34歳から4、5年間廃屋に眠り、草枕とし、ふきっさらしの中夜を迎えた。

赤穂てふところにて天神の森にやどりぬ、さよふけがた、あらしのいと寒うふきたりければと書いて一首詠める。

「やまおろしよいたくな吹きそしろたえの衣片敷き旅寝せし夜は」

唐津では、

「おもひきや道の芝草うちしきてこよひもおなじ假寝せむとは」

ありまの村にやどりて

「ささの葉にふるやあられのふるさとの宿にもこよひ月を見るらむ」

たかののみてらにやどりて

「紀の国の高野の奥の古寺に杉のしづくをききあかし」

あふみじをすぎて

「ふるさとへ行く人あらば言づてむ今日近江路をわれ越えにきと」

木曽路にて

「このくれのものがなしきにわかくさのつまよびたててさを鹿鳴くも」

「さむしろに衣かたしきぬばたまのさよふけ方の月を見るかも」

その後は故郷の思いが募り、京都で、

「うちむれて都の月をみつれどもなれにし鄙ぞ恋しかる」

「草枕夜毎にかはるやどりにも結ぶはおなじ古里のゆめ」

孤独の中、ふるさとだけが寄る辺であったのではないだろうか。

「来てみればわが故里は荒れにけり庭もまがきも落葉して」

「少年父を捨てて他国にわたる。辛苦虎を描いて猫だもならず。筒中の意志、人問わば、只だ是従来の栄蔵なり」と自分を歌う。栄蔵は良寛の幼名。

 

名刹の老子から、印可を受けるとどこの寺でも大事にされる。また、宗派を起こすこともできる身分であったが、良寛は、自分を大愚とのべ、到底世間と交わりができない性格と考えていた。

吉本隆明が「良寛が自分に抱いて離さなかったのは、その性格悲劇である」 

昼行燈は、名主の長男に生まれ、村を束ねる役職は弟の由之に任せて出家してしまう。

「どうしようもない堪えしょうのなさ、張り切ることのできないちぐはぐさ、懶怠と無為、他者との葛藤に耐えずに退転する心情、軟弱で、文学みたいなもので自分を慰めないでおられない性格、それらに良寛自身がじぶんで見極めた。」と吉本隆明はつづる。

土佐の夜、近藤万丈が、荘子の本を見つけるが、良寛は荘子の、「制度から退くこと、道徳から離脱すること」を生き方の根拠とした。天地山川は、何もしないのに、そのまま清らかで、安穏である。その荘子の無為の良さを良寛は生きることにした。

そして、漢詩、和歌、長歌と道元が禁じた文学を、自己の性格悲劇の超克を基として書き始めたのではないだろうか。

生涯身を立つるにものうく   この世で立身する気もなく

謄謄として天真に任す     のほほんとして気の向くまま の暮 
 
                    らしをし

嚢中 3升の米         頭陀袋にはまだ3升の米がある

炉辺 一束の薪         炉端にはまだ一抱えの薪がある

誰か問わん 迷悟の跡     悟りだ迷いだと問うても知ったこと
 
                    でない

何ぞ知らん 名利の塵     名声や損得も関係ない

夜雨 草庵の裡         今夜は雨が降っているが

双脚 等閑に伸ばす       こうして二本の足を延ばしている

北川彰一は、ここに、あらゆる富の内で最大な、自己充足した良寛を見だしている。                

良寛は優れた人間洞察と生活感覚で、日常生活を生々しく新鮮に、近代短歌としても見劣りすることなく歌うことができたと吉本は言う。

吉本は、表現は自己慰撫と何度か述べている。良寛についても、文学みたいなもので自分を慰めないではいられない性格と書いている。良寛の詩歌を自己表現と考えていたであろうと思われるが、詳しく言及はしていない。良寛自身も、心中の物を写さずば、詩歌は何の役にも立たないと、書いている。

そこで、性格悲劇と自己をとらえた良寛が、その性格悲劇を、どのように表現して、どのように生きていったのかを、考えてみたい。

 

良寛は宝歴8年(1759年)12月越後の出雲崎に生まれた。

家は代々名主兼神職の橘屋山本家である。父は、俳人以南を名乗り、母も佐渡の同族山本家から来ている。父は、北越では高名な俳人であり、諸国を放浪し、最後は、京都桂川に入水自殺する。良寛が乞食放浪の時である。良寛の兄弟7名も歌を詠み、父の血脈を授かっている。

良寛は、少年のころ異常な読書家であったといわれる。「性魯直沈黙、恬淡寡慾、人事を疎ましとし、唯読書に耽る。衣襟を正して人に対する能わず、人称して名主の昼行燈息子という」と書かれ、良寛も「ひとたび思う少年の時、書を読んで空堂にあり。灯火しばしば油を添え、未だ冬夜の長きをしらず」とある。

家の蔵書には、論語は言うに及ばず、古今集、後撰集、拾遺集があり、西行和歌集があった。西行法師には、その歌集に親しみ、行雲流水の境涯にあこがれていただろう。放浪中西行の墓を詣でているし、西行の「わびぬれどわが庵なれば帰るなり、心安きを思い出にして」を口ずさみ、筆を取っては書きしている。

18歳の時、名主見習い役の身分を捨てて、隣町の尼瀬の曹洞宗光照寺に出家し、剃髪した。

吉野秀雄によると「彼は人生の大疑問を解決すべく発願し、おそらく、父母の許しを待たずして、積極的に出家入道す」と言う。22歳の時、備中玉島円通寺の大忍国仙和尚が光照寺を訪れ、良寛が和尚の徳風を慕い、はるばる玉島に随伴した。

この当時は、学問を志したものは、出家が最も普通であっただろう。京や江戸ならまだ違う道があっただろうが、越後ではそうもいかない。

郷里を離れて、遠國備中にて数編の漢詩がある。

「円通寺に来りしより、幾たびか冬春を経たる。衣垢づけばいささか自ずから濯ぎ、食尽きれば城円に出づ。門前千家のいふ、更に一人も知らず。會て高僧伝を読む、僧伽は清貧を可とす。」と孤独を嘆き。また「おもふ円通にありしとき、恒に吾が道の孤なるを嘆ぜしを。柴を運んでは奉公を懐ひ、碓を踏んでは老盧を思ふ。室に入る敢えて後るるに非ず、朝参常に徒に先んず。」と、のちに書いている。

師亡きあと円通寺を飛び出して、九州に向かい、清に向かっていたともいわれるが、定かではないようだ。その後、四国を回り、近藤万丈に会い、父の死をどこかで聞き及んで、京都に行き77日の法要に出、紀州の高野山に父の冥福を祈り「杉のしずくをききあかしつつ、」と歌い、京都に引き返し、北陸道を経て越後にもどる。故郷を離れて20年の歳月が流れている。今や肉はそげ、肩はゆがみ、顔面蒼白の壮年の乞食僧、これまでの20年の詩歌は帰国後にしたためたもので、恐ろしいほどの沈黙を守ったと、吉野秀雄は書いている。「彼の沈黙は、自ずから彼の真理探究の難行苦行がいかに充実し透徹していたかを示すもの以外あり得ない」と述べている。

寛政7年38歳郷里に帰るが、出雲崎の生家の門前にしばらく佇んだだけで、生家によらず、転々と出雲崎を中心として草庵や、寺院で一所不在の乞食生活をする。良寛は、生家の前で何を思っただろう。兄弟の顔を見たかっただろうし、思い出の屋敷に浸りたかっただろうが、制度と道徳を捨てた良寛は、そこで観念して思いとどまったのだろう。

国上山の本覚院にも宿り、古刹国上寺も訪れ、よほど気にいったのか、国上山南面中腹山中に孤立した五合庵に落ち着く。五合庵は、国上寺の住職の隠居小屋で8帖ぐらいだったと言われている。

「いざここに我が身は老いんあしびきの国上の山の松の下庵」

「さくさくたる五合庵、室は懸けいの如くしかり、戸外杉千株、壁上偈数編、釜中時に塵有り、そうり更に烟なし、唯東村の老僕ありて、時に敲く月下の門」。

 

越後には、父もいず、母も四九歳で12年前に亡くなっている。

「たらちねの母がかたみと朝夕に佐渡の島べを見つるかも」

「いにしえにかわらぬものはありそみとむかひに見ゆる佐渡の島なり」

母を思って佐渡を見ると歌う良寛は、父母の思い出をことこまかに歌っていない。

桂川に自死した父をしのんで

「水茎の跡も涙に霞蹴り、ありし昔のことを思えば」と2,3の句があるだけだ。

彼の性格を型作ったものが、生来なのか、育ちなのか分別できないが、儒教の父母の教えを考えるに、今の時代のように恨みや反発を父母にぶつけることはなかっただろう名家の良寛には、愛着障害のような影響は些細なことだったと思う。ただ、自分の気性に忠実であるよりほかなかったのだろう。

良寛の逸話に「師常に黙々として、動作閑雅にして余りあるがごとし、広ければ体ゆたかなりとはこのことならん」これは、師はだんまりで、のろま、ま延びしていて、大男総身に知恵はまわりかねと言下に示している

「師平生喜怒の色をみず。疾言するをきかず。その飲食起居、おもむろにして愚なるがごとく」

良寛58才のころ「之を知らざる者は視て以て痴人と称す」「痴凱と呼ぶに任す」と書いている。子供のころから痴人と言われ続け、大愚と号する良寛は、早くから自分を肯定し、自分は運命としてこういう性格を引き当てたのだと自覚した。政治制度から自由で、道徳も世間で言われること無頓着で生きる方法が、自覚を成し遂げた大きな理由だろう。

先に記すように、荘子の「制度、道徳から離れる生き方」を選んだ良寛は、ほんとの隠棲を郷里で始める。天地自然と一緒になって遊ぶような生活である。人が、バカと言い募っても気にも留めないでいられた。

我々は、職業を持って一人前と考えるが、人はそもそも職業を持つために生まれてきたのではない。時代と共に仕様がなく選んだことである。では何のために生まれたか?それは、「生」は天地から与えられたものであり、「死」は天然と言う巨室に眠ることだと荘子は言う。良寛はそれを認識した。「荘子の無為の思想に開放されて、自分の若いときからの資質である風光に慰籍する情念を、詩歌にて表す。」と吉本はのべる。

では、どういう方法で、食を取るか?

身体を養生するため薬だと思って必要最小限度の食を、托鉢によってる。何故、自分で働いて食を得ないのか?と問いたくなる。それは、釈迦の時代から連綿と続いてきた僧の修行方法であるからだ。お金持ちもそうでない家からでも平等に食を乞う。僧は無一物として修行し、そのことによって村落共同体と関わりを持つ。

道元は「仏教の修行は夏涼しく、冬は暖かくして、薬のような最小限度の穀物を食べ、爪は切り、歯は磨き、小ぎれいにしておく」と言い、良寛はこれに沿って乞食の生活を始めた。

道元禅では、「農耕民や、村落共同体のために、橋をつくったり、土木や灌漑をして奉仕する概念はない。そんなことはどうでもいいことで、ひたすら座禅(只管打坐)したり、山河の音に耳を傾けたり、木の葉の落ちる響きを聞き分けたりする状態に仏を体現することが大切で、そのこと自体が仏で、それ以外の仏の状態は認めない」という理念がある。

 千峰凍雪合し     山山には凍っている雪が積もっている

 万径人跡絶ゆ    すべての道は雪に埋もれて人の姿はない  

 毎日只面壁のみ    毎日壁に向かって無為に座っている

 時に聞く窓にふる雪  時に窓に雪が降り積もっている響きが聞
 
                こえる

良寛に自然の詩歌が多いのは、そういう生き方を選んだからだ。

 

さて我々には、制度を離れて道徳に無頓着に生きる方法は残されていない。時折、行き倒れが本望と言ってはみても、家庭があり、仕事があれば無理に決まっている。

良寛と同じに生きるのは不可能としても、良寛がおのれを肯定したように、我々の社会生活そのものを肯定する方法はある。制度の中に生き、道徳的に生きる。ストレスにあふれたこの生活を、ストレスごと肯定する。

僕の事を言えば、今年は、正月から孤独感がサーとやってきて、今、ストレス性下痢が続いている。鬱々とした毎日に、良寛をもう少し考えたいと、文章を書き始めて、その症状がゆるまってきている。

ジャニスジョップリンのように、泣き叫ぶ方法もあるが、どういう表現でもいい。きっと答えなど見つからないだろうが、表現し続けることで、その表現を続けていくことで充実感が戻り生きていけると思う。

良寛は、大衆に見せるために詩歌を歌ったわけではない。作品集を出すことも考えていない。貞心尼の「はちすの露」の本の中に良寛を見つけた人々が採集して、良寛の詩歌が世に出た。ただ、自分のために荘子や道元の教えに感じて、自然を歌い、生活を歌い、その表現に、生きる力を得たのだろう。

しかし、気を付けなければいけないことがある。

ただひょうひょうと托鉢し、歌をうたっていたわけではない。

良寛は、戒語として90もの、気を付けなければいけないことを書いている。ほとんど対人についてのことだが、

人の顔をみつめてものいう。

人の顔色を見ないで物言う。

人の言い切らぬうちの物言い。

誇張した話。

理屈ぽい話。

人の隠すことを明かす。

推しはかりごとを真のように話す。

押しがつよい。

息もつかずの物言い。

人の器量のあるなしを言う。

子供をだましてはいけない。

子供に知恵をつけてはいけない。

誰が泣かせたと問い詰めてはいけない。

学者めきたるはなし。

さとりくさきはなし。

人をうやまいすぎる。

へつらう。

そして、詩人の詩のように歌ってはいけない。

書家の書のように書いてはいけない。と自分をいさめることを感じては90か条まで書き続けた。

我々は、他人に怒り、自己に甘いという人生を送ってきている。

老齢になると、知らず知らずそれらに気を付けるように自然になってくるが、良寛を読むと、まだまだ自分の甘すぎることがわかる。

良寛は、あまり緊張が続くと疲れてぐったりすると言われている。そのためちょうどいい状態を維持することを探りながら生きたのだろう

世の中にまじらぬとにはあらねども ひとり遊びぞ我はまされる」

良寛は、制度と道徳を見はなしたが、そのかわり孤独を友とすることになった。友人は数人いたが、毎日は、孤独の淵にたたずみ、悲しみ、さびしがり、それを歌った句が数知れずある。

「冬夜長し」

冬夜長し冬夜長し

冬夜悠々何時か明けん

燈(ともしび)に炎なく炉に炭なし

只聞く沈上夜雨の声

  この詩に吉本は、良寛が自分で選んだ孤独の生活に、なぜこんなことをしているんだと否定的になった姿を想像している。

のほほんと  、            悠々と生きている良寛だけでなく、苦しみ後悔する姿もあった。 

吉本隆明、良寛は漢詩、和歌、長歌を歌い続けたが、その中長歌が「もっとも自由で起伏ある心の動きと情景の動きを表現している」とのべている。その孤独の長歌。

「眠れぬ夜」

  この夜らの いつかあけなむ

  この夜らの 明けはなれなば

  をみな来て 尿をあらわむ

  こひまろび(ころげまわり) 明かしかねけり

  ながきこの夜を

 

「手まりつき」

霞たつ ながき春日に

飯乞うと 里にいゆけば

里こども いまは春べと

うち群れて み寺の門に

手まりつく 飯はこはずて

そがなかに うちも交りぬ

そのなかに 一二三四五六七

汝はうたひ 吾はつき

吾はうたひ 汝はつき

つきてうたひて 霞たつ

ながき春日を 暮らしつるかも

                       良寛は飯を乞うことも忘れて手まりつく。

 
  
  神無月 時雨の雨の をとつ日も 
 
  きのうも今日も降るなべに 山のもみじは 

  たまほこの 道もなきまで 散りしきぬ 

  夕さりくれば さすかけて つま木焚きつつ 

  やまたづの 向かいの丘に さを鹿の妻よび立てて 
 
  鳴く声を 聞けば昔の 思ひ出て

  うき世は夢と知りながら 憂きに堪へねば 
  
  さむしろに 衣片敷 うち寝れば 

  板じきの間より あしひきの 山下風の いと寒く 
  
  吹き来るなべにありぎぬを ありのことごと

  引きかずき こいまろびつつ 
 
  ぬばたまの 長きこの夜を いも寝かねつつ 
 
 
 
  

  ひさかたの 雪かきわけて さすたけの 君が堀りけむ 
  
  さ百合根の さゆりねの そのさゆりねの

  あやにうまさよ
 
 
  
 
 
  「わくらば」(病葉)
 
 
  わくらばに 人となれるを うちなびき 病の床

  に ふしこやし 癒ゆとはなしに いたづきの 
 
  日に日に増せば そこおもひ みをおも

  そふに 思ふそら 安からなくに なげくそら 
 
  苦しきものをあからひく 昼はしらみに 

  水鳥の 息づき暮らし むばたまの夜はすがらに 
 
  人の寝る 安寝もいねず たらちねの

  母が在しなばかいなでて 足らはさましを 
 
  わかくさの 妻がありなば とりもちて

  はぐくまましを 家とへば 家もはふりぬ 
 
  はらからも いづち去ぬらむ うからやも 

  ひとりも見えず つれもなく 荒れたる宿を 
  
  うつせみのよすがとなせば うづら鳴く 

  ふる里すらを 草枕 旅寝となせばひと日こそ 
  
  堪へもしつらめ ふた日こそ 忍びもすらめ

  あらたまの長き月日を いかにして 
  
  明かしくらさむ うちつけに 死なめと思へど

  たまきはる さすが命の 惜しければ 
 
  かにもかくにも すべをなみ音をのみぞ泣く 
  
  ますらをにして

                 

病のつらさに、母がいれば、足を挟んで温めてくれるのに、妻がいればはぐくんでくれたろうに、長患いに、死んでもいいと思っても、やはり、命は惜しいと、声を立てて泣いている。と、良寛。

良寛は、悟りくさき話を自分にいましめている。詩歌にも、和歌にも、長歌にも、それらしきことは歌われていない。おのが心の内を歌う詩歌でないと役にもたたないと、自然を歌い、生活をつづり、春をよろこび、こどもらと遊ぶ楽しみを述べ、孤独を嘆いた。

冬の寒さと冷たい風、やまいに伏し、独り寝に嘆き、それらをすべて歌に託した。

これらの感情は、我々も同じように感じることができる。

世間からおのずから離れながら自分の孤独を恨む姿ものべている。

まったくの人生だと思わずにいられない。

良寛は、漢詩と言い、和歌、長歌、書に、見事な才能を発揮したが、それらは、我々から遠く隔たっているが、我々と同じ人生だと思われないだろうか?生きている者の非情は、どの生命体も感じている。

ただ、その非情を、非情として生きていけるかどうかが、われわれの生き方にかかっている。

唐木順三の「良寛」に書かれている「良寛にはどこか日本人の原型のようなところ、最後にはあそこだというようなところがある」とは、そういう意味ではなかっただろうか?

最後に末期の一句

「うらを見せおもてを見せてちるもみじ」

享年74才、1831年正月6日の夕刻。

 

  引用文献

  吉本隆明「良寛」

  吉野秀雄「良寛和尚の人と歌」
        「良寛歌集」  

                                               
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北川章一「漂泊の人良寛」