2016年4月1日金曜日

美しいサッカー


「美しいサッカー」

 

 

ある社会がパフォーマンスよく動くには、最少人数の5人と仮定して、その5人の仲間の
 
内、2人は出来る人、2人は普通、1人は出来ない人が良いと言う。

5人とも優秀でもよいと思われるが、 

優勝な人材とは、その時代にうまく当てはまった人のことで、

彼らが江戸末期に生まれ,時代の激動期に同じく優秀であることはないだろう。
 
想定外の事故の対処のことを思えば、同一価値の者で固めることは不利だと解る。

人が生きている社会は、できるだけ長く存続させたいが、時代の変わり目には優秀さも変

化する。

刻々と、趨勢が変化する時代に、現代と同じことを続けていれば、生きていることさえ不
 
可能な状況が来るかもしれない。

そこで、社会には3種類以上の価値観を持った人材が必要なのだろう。

時代に沿った人が2人、得体が知れないがそこそここなす人が2人、使い物にならない

1人と5人の社会ではこういう構成になる。

では、出来ない人をどうするのか?

会社に出てきても、釣りの話しかしなくて営業成績はめっぽう悪い。

徹マンでもして、遅刻はする、仕事中はうつらうつらしている。

営業成績を上げている出来る人は、俺があいつらを食わせていると、自負している。

それでも、その一人の必要性はある。

どう必要になるかは将来にならないと解らないが、解らない限り、解る人たちの中に必
 
要なのだ。将来は解らないのだから。

多分、自然社会の構成も、弱者から強者、強者から弱者と変化しながらも多様な価値を
 
持った人たちでなっている。

その多様な人達全員が、多様な社会の変化の為に必要な存在である。

神戸の震災の後、ある大学での事、校内はガラスが割れ、書架は倒れ、見るからに何日
 
も通ってきて整理しなければならない状態であった。著名な教授は、誰かに片づけてもら
 
えばよいと思ったのか、一瞥して翌日から出て来ない。

数人の目立たなかった教授が、毎日片づけにやってきた。

ここでは、出来る者は出来なく、普通であった者たちが出来る状態に変わっている。

価値観の多様化は、このように必要なのだ。

江戸後期、各地の下士たちが率先して明治を引っ張った。

それぞれの藩では、うだつの上がらない侍たちである。
 
竜馬を筆頭に、彼らはファンタジスタであったのだろう。

 

楽しみにしていたブラジルワールドカップでは、スペインが力を発揮することなく負け
 
てしまった。

ぼくには余りに大きなショックで、後の試合も見る気持ちにならない。

10年続いただろうか、

それまで万年2位と言われ、体格差は歴然とし、それでもコミュニケーションサッカーを

貫き通した。

サッカーは、社会の最も良いパフォーマンスを、シュミレーションしていると思う。

思いもかけない惨事が起こった村で、村人が力を合わせて、危機から切り抜ける方法を全
 
世界に見せている。サッカーは、困難な挑戦なのだ。

その最良の方法を、スペインは実施した。

見ていて解らない輩に、話しても解るものかという諺がある。

サッカーでは、言葉など不要だ。

どんな大きな強靭な相手でも、無言のコミュニケーションさえ出来れば、危機から脱出で
 
きる。言葉など返って邪魔なだけかもしれない。

空いたスペースに走り込めば、そこにパスが来る、それを見越して次のスペースに走り込
 
む。そこへ、敵が攻めてくるなら、3人目、4人目と言葉無くパスができる。

ひと所にとどまるのは一瞬で、次々とパスは動き回る。

そこで、出来ないと思われていた一人の出番がある。

パスも動きも相手に読まれている、

攻撃は先手になり、防御は後手になる。

攻撃の先を読んで、防御に出る者もいる。

先の読めないパス、今まで見たこともないプレーが必要だが、優秀な出来る者は読まれ
 
ていて出来ない。

出来る者のプレーは、だいたい読まれている。

読みようもないプレーヤーこそ、この場面に必要だ。

そして、その人のことを、ファンタジスタと呼ぶ。

 

スペインが敗れた一つの理由は、ファンタジスタの賞味期限が切れ、出来る人たちになっ
 
てしまったことが敗因なのだろう。

 

嘗ての試合でのこと、

イングランドのアーセナルにいたオランダのフォワード、ベルカンプが一目散に走りだし
 
た。

みかたのディフェンダーが反応してロングパスを蹴る。

ベルカンプはセンターラインから右サイドにまっすぐに駆け上がった。

一度も後ろを振り向かずに、全速力でペナルティーエリアの右隅まで走り込むと、

ホームの観衆は、口には出さないが、今だと思った。

その思念が、ベルカンプを振り返らせた。

右肩上から落ちてくるボールに一瞬目をやり、ベルカンプはやさしく右足をだし、

味方のゴール前から宙を描いて飛んできたボールを難なく体の前に置いた。

置くと同時に、右足を振りぬき、キーパーの反応より早くゴール右隅に突き刺した。

人は、自分個人だけの力では、100%の力が出せないようにできていると思う。

数万人いるアーセナルの観衆が、ベルカンプ今だ!と思った。

打て―と心で叫んだ。

そのすべての力を自分の体に感じて、右足を振りぬいた。

ファンタジスタは、決して個人の力だけに頼ってプレーをしない。

モハメッド・アリが、リングの中で両手を広げて、アリ!アリ!と合唱させたことは、記
 
憶にある。観衆と一体となってプレイすることによって、思わぬ力が発揮できるものだ。

プレイとは、信仰する、祈ると言う意味がある。

サッカーは、勝利を賭けたゲームではあるが、

ベンゲル監督が言うように、美しい勝利にしか勝利の意味はない。

勝ちたい欲望しか現さない今回のオランダのようなチームは、称賛されることはない。

嘗て、ヨハンクライフの深淵なプレースタイルを信じていたオランダチームは、イタリア
 
と決勝を争って、自分たちの美しいゲームに固執して、恥ずべきセンターリングを上げな
 
かった。まことに美しく悲しいゲームであった。

つないでも、つないでも、イタリアのカテナチオを破れなかった。

誰もが、暗いハートという長身の選手にセンターリングを上げろと、考えたはずだ。

しかし、センターリングは、脳なしのやることだと、見切りをつけていた。

守備重視のイタリアが、垂涎のチームと言われないのも、力ずくでのし上がってセンター
 
リングを上げてくるドイツが、何回優勝してもファンが少ないのは、美しくないからだ。

オランダは、イタリアに完敗したその試合で、美しさに見切りをつけた。

南アの大会のオランダは、無様なスライディング、体当たり、反則で欲望丸出しのゲーム
 
を行った。

今回も、イタリア戦で天を取れなかった暗いハートがコーチとしてベンチに座って、
 
欲望丸出しのゲームを続けている。

美しさより、勝利、

それぞれの国柄のローカルなプレースタイルより、

勝利の為だけのグローバルな欲望スタイル、

巨大産業となったワールドカップの行く末なのかもしれない。

 
                       近藤 蔵人 26.6.

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