2016年9月29日木曜日

お知らせ


 

 

来月10月15日(土)、16日(日)午後1時から8時まで。

光のページェントいせさき「燈華会」にあわせて、

赤石学舎ホールにて、近藤蔵人絵画展を行います。

「花のことば」として、孫娘の俳句に合わせての俳画や、

孫娘を描いたパステル画、鉛筆画などを展示いたします。

燈華会ではその他いろいろなイベントがありますので、

お立ち寄り、ご高覧いただければさいわいであります。

              近藤蔵人

2016年9月5日月曜日

よもやま話


よもやま話、3話。

 



 1


友人の亡くなった犬が、僕のふくろはぎにからだをこすりつけたことは、先の「怪談」に書いているが、夏の終わりを迎えてその続きの「さまよえる霊」を書いてみます。


友人と彼の子息が、新潟の山奥の渓流釣りに愛犬を連れて行った。いつもは彼らのそばを離れず遊び回っている犬が、帰るころには見当たらず、呼び続けても姿を見せない。小一時間歩いたところに止めた車の方に行ったのかも知れないと、帰りを急いだ友人が、子息に言い聞かせ、車まで戻ったが、やはり犬はいなかった。友人は、しようがないと置き去りにして、高速道路を運転して帰ったそうです。子息はその間も「もっと探そうよ」と泣き止まなかったと言います。その一年後、初めに書いたように、伊勢崎の彼の家で犬の体が僕に接触してきたのです。その時、犬が体を擦りつけてきたと話すと、友人も彼の家族も、怖いと思わない何かが家の中をこつこつと歩いていると僕に話します。

友人家族は、富を与える座敷童だと思うと言っていますが(確かに富は得ていますが)、これからの話で、その愛犬ではないかとあなたも思えるのではないでしょうか?

彼は、その後海釣りにはまり、クルーザーを購入した。初出船で粟島の夜釣りをしたが、電気系統の故障で運航できなくなり、真夜中、他船にえい航してもらって港に帰りました。その時僕も同船していた。後日、新潟のクルーザー係留港に朝早く到着したら、クルーザーのマストだけが海から出ていた。船底から水が入り水没していたのです。また、村上沖を航海中、漁網を引っ掛けて、仙台海上保安庁に調停に出向き、漁師に多大な費用を払ったと聞きました。その船は、やむなく係留地に買ってもらったそうです。

それでも船をあきらめず、数年後、相模川下流にあるヨットハーバーの持ち主と飛行機で乗り合わせ、伊豆では伊勢海老が夜中堤防で釣れると聞いて、先の船より大きなクルーザーを手に入れました。装備を付け直し、初めての出船で、熱海沖航行中、流木に乗り上げスクリュウが破壊され、片方のスクリュウで蛇行運転しながら帰ったそうです。修理してしばらくして、またもやエンジンの不具合が見つかり長い修理期間と費用をついやした。修理期間中に係留していた船のキャビンのドアを壊され、高価な釣り道具などの盗難にあったこともありました。

なぜか、釣りのたびに不運が訪れると感じます。

その間、奥さんをがんで亡くし、娘さんのご主人を亡くし、友人自身も、あと半年の命と医者に宣告され、僕は、つい、お祓いしたほうがいいんじゃあないのと忠告した。その時点では、亡くなった犬が、山に置き去りにされていたことに関係があるとは考えつかなかった。

犬を飼えば解りますが、飼い主を始終見つめて、事あれば遊んでもらおうと待ち構えています。離れる時は寂しそうにどこに行くの!連れて行って!と言うように吠える。住み慣れた場所では、帰りを待ち焦がれてうずくまっていますが、帰りを出迎える時の喜びようはこちらが押されて倒れそうです。彼の犬は、初めての不安な山に主人と会えなくて、泣いていたでしょう?その泣き声はママ!ママ!どこにいるの!と泣きじゃくっている子供のようでしょう。僕は、主人を探し続けて、ペットの為食物を取ることもできず餓死したのではないかと思っています。成仏できなかった犬がさまよって、遊んでいるご主人のもとに、自分の存在を知らしめているのではないかという思いを消すことができません。

今では、書き記したり、話したりして欲しくて、僕のふくろはぎに接触してきたと思っています。

 
 かつての平将門や菅原道真の怨念を当時の人は身に染みて感じることができ、彼らの怨念の慰撫のため将門塚、道真には天満天神として敬うことが必要だったのでしょう。さまよう何者かは、誰かが、その話をしたほうが安心すると思います。
 

 

2

スーパーマリオになりたいと言う子供は可愛いいが、大人が、それも権力のある独裁願望な人がマリオになりたがるのは不気味に感じる。あの場面を見て、あまりのみにくさにチャンネルを変えた方がいたと聞くが、コマーシャルを演じた最初の首長として好意を持った方も多いと聞く。

原子アメーバーでさえも、捕食するものと、自分が捕食されるものとの区別が出来る。生存本能があれば当たり前なのだろう。

さて、本能が壊れたと言われる人類は、断崖絶壁へ向かう指導者を、それと区別できるだろうか?

世界は混とんとしていて、唖然とするしかないが、それをシンプルな物語で理解したいと思いたくなることは理解できる。だから神話も宗教も人類には必要なのだろう(1話も真実そうに書いたが、僕の思い込みの物語に違いない)。
世界を創造したという一神教の中から物理学者が当然のように出てくるし、医学者でも水中に一時間居られると言う尊師を崇拝する。どんなに学問を積んでも、時として反知性的な物語を信じてしまうことがある。
 

戦後、個人主義によって人心は荒廃したと思っている人々がいる。

戦前のように親に忠実な家父長制にあこがれる国民会議の人々は、人々に人権など与えるべきでないと言う。確かに、長年培われた大家族制度に利点も認められるが、人類が発見した理想、「平等と自由」は、求め続けなければならないと思う。親の言うことを黙って聞けとは、親が断崖に向かう事態もあることを忘れてはいけない。親の務めは、時期が来れば背中を押して、子供を一人立ちさせることに尽きると思う。子供を自分の思う通りにすることではない。

勉学に励み、頭の回転がよい大勢の知識人がそうした思想におちいり、複雑な世界認識をあきらめて、シンプルな解りの良い物語に居ついてしまうのは、知性と生き方は、脳細胞の位置が異なっているようで、簡単に分離するようだ。

そうした人々は、上目目線で、こうしろ、ああしろ、こうすべきだ、と話すが、人は、それほど高級な脳組織を持っていない。ただ、天皇の談話にもあったように、寄り添って生きるしか方法はないのではないかと思う。

たぶん、生命体はすべてわがままに生まれてくるのだ。自己保存と種の保存のためには、自分だけでも生き残りたいと行動するだろう。そののち、人は個人で生きているのでなく、社会生活が生存のために必要だと理解するから、思いやりも必要になってくる。馬齢を重ねても、自分の意向に従わない人々を責め、わがままであるのは(子供のままでいるのは)成熟が足らないということなのだろう。

生命体は、種ごとに一定の生き方をするが、その中の一生命は、それぞれが驚くほど違っている。リンゴの一個一個が違っていると認識しないと、平等と自由がわからない。平等と自由は、違っていることが普通で、自分の物語だけが常識と思わないところから始まる。

 

3

アメリカで、マッカシー旋風が吹き荒れたころのノンフィクション映画「グッドナイト、アンド、グッドラック」を見た。マッカシー上院議員が、米国民に共産主義への恐怖を植え付け、無差別に告発し、自由を奪った20年間の社会情勢のことだ。今では反知性主義とマッカシーを批判しているが、当時は、反論したものはすべて、お前は共産主義だと言われ、市民生活を閉ざされる人々があふれ、その恐怖で、密告するものまで現れ、まるで関東大震災時の朝鮮人虐殺、また、戦時の非国民騒動に似た状態が、アメリカでも行われていた。家族に一人でも、疑われる集会に参加したり寄付したものは、家族全員が共産主義と決め付けられ、反論の余地も、法律による救いもなく解雇され追放された。

マッカシーという2流の上院議員が、国務省にいるかくれ共産主義者200人のリストを持っていると発言したことからことが始まったそうですが、時のFBIのフーバー長官が、赤狩りとして取り締まりを強化したことも、長引いた要因です。

2005年俳優のジョージクルーニーが監督脚本主演のこの映画は、マッカシーの強権の中、CBSテレビのキャスターが、赤狩りの非道さを報道することから始まります。自由を守ることがメディアの務めだと、社内の反対を押してただ一人マッカシーの言説を批判、報道します。

告発したキャスターはマーローと言いますが、そののち、彼の理路整然とした報道により、議員などがマッカシーに反論する事態となって、すごすごとマッカサーは表舞台から降ります。それらの報道によってCBSはニュースのCBSと評価されました。広告主もCBSのトップも不安はあったでしょうが、マーローの人格と正義感に、報道を許したのです。

ジャーナリズムは、世を正常という位置に戻す使命があるのだとこの映画を見て思います。

 

怖い事態を3話書いてみましたが、夏の暑さがこの話で緩むわけはないですね。