2017年1月27日金曜日

春の訪れ


 

まだ底冷えのする3月の朝、散歩の途中、犬が臭いを嗅ぐ道草の中に、紫の小さな花が数個咲いている。両側が堰堤の川の淀みには3,40センチもある鯉が上流に向かって尻ビレをゆるやかに動かしている。
3月4月は例年まだ雪が積もることがあるのに、小花も鯉も大丈夫なのだろうか?濡れた雪の重みと冷たさに花はしおれ、鯉も冷水に腹を見せて目を大きく開け、口をパクパクさせないだろうか?
2月のふとしたあたたかさと、3月のそうしたあたたかさには、違いがあるのだろう。
3月には、生命の息吹がそこここに現れる。そのうち、何割かの命は早く目覚めすぎて一瞬の命を散らせるのだ。
もうすこし本格的に暖かくなって目覚めればよいものを、ほんのちいさな兆しに反応する命に、何を見つけて柔肌を厳しい残り冬にさらすのだろうか?

「イシス最期のインディアン」彼らを思い出す。
秋にタラフク食べ、蓄えられるものを身辺に集め、これからの長い冬に備える。
その蓄えた物もなくなり、今か今かと狩や木の芽の採集に出かけられる日を待ち望む。体は痩せ細り2月の太陽、3月の香りを嗅ぎわけ、雪がとけたある印の日、一人一人と野原に狩と新芽をつみに出かけるのだ。
彼らは、空を見つめ空気を感じ印の日を待ち焦がれている。

それは、食料が乏しくなった1月の中ごろから、毎日、春よこい、はーやくこい、と、木々に問い、川の流れに訴え、太陽に願うのだ。

春はいつになったらやってくるのか?と。

そのとき、星たちは春の到来を知らせる。

夜、凍てつく足もと、きらめく星の話し。 
我々の冬と春の関係は、これらのインディアンと変わらない。

待ち焦がれる春なのだ。
春は最高のめでたさなのだ。
その、待ち焦がれる気持ちは、人々だけでなく、どんな生命にも同じようにあるだろう。
紫の小花は、2月の末から一日たりとも来る春を願わなかったことはない。
息も絶え絶えになるかもしれないその鯉は、上流から流れてくる雪どけ水に過敏に反応して、「山は春だ。もうすぐ虫たちが流れ落ちてくるぞ」、と刻々の変化を感じ続けている。


気温の変化で、もう一度寒い冬がぶり返してきても、待ち焦がれるきもちに、あせりはつき物なのだから、生死の堺は、食わずに餓死するか、それとも凍死するか、それは、めでたい春を待つものたちの全ての選択肢なのだろう。
インディアンが食べたその春の一番最初の新鮮な木の芽に感動してみたい。
季節を感じ続けること。
到来する季節を味わい、めでたさを満喫すること。
インディアンは、何ヶ月ぶりに摘みたての新鮮な葉っぱを食べたのだろう。
春のめでたさは、一年の中でも、最も大きなものである。
「あけましておめでとう。」は、ようよう迎えた生命の息吹の春のよろこびなのだ。


 

アフリカの50度を超える灼熱地帯に白く固まった塩湖がある。

塩を掘ってらくだに乗せた十数名のキャラバン隊。国境をまたいで砂漠地帯に塩の交易の旅をしている。
その隊長は、一瞬の過失が死をまねく過酷な生活を続けていることを質されて「この生活は祖先から引き継いだ我々の伝統的なスタイルです、しかも、この漂泊ともいわれる生活には自由があります・・・・」と答えた。定住しない生活者には、過酷ではあるが、本来の自由があった。

石器時代のように生き続ける人々は存在するのである。

 

アメリカコロンビア大学で、サボテンの奇妙な実験があった。
数人の人間にサボテンの前を歩かせ、その内の一人がサボテンを蹴る。

その後に一人ずつ歩かせ、その蹴ったものが通るときだけ、電極がなにやら反応した、という実験である。

サボテンは蹴ったものが解るということだ。
蹴られた!と思うのか?こんちくしょうと思ったのか?


植物のネムリソウの眠る動きをする筋のようなものは、人の筋と同じ成分であるという実験もある。生命体の筋は大体同じようだ。
脳に入力を受けて筋で出力をすることは当たり前だ。綺麗な花と視覚に入力するから、触ってみようと手の筋肉が動くということだ。

しかし、急激な反応が必要な筋肉の働きは、脳に入力が到着する前に、筋肉が活動することが解ったそうだ。(脳のシナプス間を電流となって動き回る時間が測定できるのだ)。
では、脳が命令しなくて、だれが筋肉を働かせるのだろう。

サボテンが日々空を見上げながら、いや、視覚はないのだから、気圧を感じるか、水分を知るか、太陽の向きと暖かさを感じていても、何ら不思議の作用ではない。

僕達がカブト虫を取る時、クヌギを足げにしてカブトの落下を待ち構える時、クヌギはこのやろう!と思っていたということではないか?

それとも、カブトを取るつもりで木をゆするだけで、木に危害を及ぼすつもりがないことは、知っているだろうか?サボテンのように倒れやすくないゆえに。

サボテンが特異だとは思ってはならない。
生命現象のすみずみに感受性はあるとするのが、アミニズムである。

ブータンの仏教徒や、自然と生活を共にするあちこちの先住民の感受性だ。

彼らは、自分たちもその他の生命現象のいちスタイルと思っているだろう。
アメリカのインディアンの語録に、白人はどうしてあれほど饒舌な木の言葉が解らないのだろうとある。
ともすると、木の枝の向きやら皮の状況やら生理的な事に思えるが、実は生理的な事柄でなく心理的な事柄を指していることがサボテンの感受の話でわかる。
だから、植物よりも活動的な動物に、もっと高等な感受性の存在を知ることは自然な成り行きだ。


それでも、脳が僕たちを働かせるのでなく、誰が、脳内のシナプスより早く、僕たちに、行動させているのだろうか、という疑問は残る。