2016年6月28日火曜日

バッハ無伴奏チェロ組曲の録音現場にて

先日、玉村にある「コーヒーショップむじか」さんで、チェンバロコンサートを聞いて、そういえば、しばらく前にこんな感動があったと思い出し、その時書いた文章を掲載します。

「東京プレリュード」

 

バッハの無伴奏チェロは、2大巨匠であるシュタルケル、ロストロポービッチの時代に、聞き込んだ覚えがある。40年も前の話だ。どちらが精神性が深いか?が判断基準であったが二十歳代の僕に解る訳はなく、ロストロポービッチのレコードは知り合いに進呈し、シュタルケルは弦のバチバチ響く音に圧倒されながら今もどこかにある。LPレコードにちっちゃなタンノイのスピーカーの時代である。その後、ビルスマ、日本人のチェリストを購入したが、当時ほど、聞き込んでいない。

昨年、ベルイマンの遺作映画「サラバンド」を見た。彼らの自己執着と、我執の関係までをも包摂しようとするベルイマンの姿勢、その中、老教授の美人の孫が引くバッハのチェロ曲「サラバンド」(何番のサラバンドかも失念してしまったが)によって救いが現れる、そのサラバンドの美しさに、また無伴奏を聞いてみたくなった。だが、いまだ聞かないままであった。

 

そんな折、思わぬいきさつあって東京、ロシア大使館そばのサウンドシティー(録音スタジオ)にて、オランダのチェリスト「ピーター・ウィスペルウェイ」の録音現場に、立ち会うこととなった。
録音ホールで器具の調整やら、持ち込んで行ったヒッコリーの板の置き場所をセッティングしつつ、その日の夕刻、彼がドボルザークのチェロ協奏曲の演奏会を済ませた後、バッハの無伴奏チェロの録音の為、録音スタジオに来るのを待っている。

午後9時前に到着。演奏会後食事もせず、急路飛んできた印象である。背は高く、小顔で美男子と言っても間違いでない顔に、スーツに隠れたすらっとした体形、横に白いケースを立てている。

10人程いた現場の人々を一瞥して、録音エンジニアがこの場所がバイオリンでは、響きがいい場所である旨聞くと、すぐさま赤や黄色のステッカーが目立つ白いチェロケースを開け、古色蒼然の楽器が手に取られ、中腰に成りながら音をだしはじめた。

この場所、あの場所と、数か所チェロ下部からやっと引き出した先のとがったピンを、床のフローリングに突き刺しながら、どの場所が最も響きがいいか、聴き比べをする。

そのうち、演奏用イスに座りながら、背の高い天井を差したり、白い大理石の壁と、反対側の壁とを、両手で差し示しながら、良くないという表情をした。

このスタジオは、天井が6mほどの高さ、巾15m、奥行き10m程で、平行面がないようになっており、梁は露出し、1m角の柱も中に立ち、まわりに、小さい録音室のガラスの扉5,6か所あり、複雑な空間を呈している。一目でどこが良いかは、見当もつかないスタジオである。

演奏者の要求で、50センチ高さの演奏台が必要だということで、台のセッティングに行ったわけだが、50センチの高さの上で音だしすると、音が響きすぎ台に吸収されてしまい、床面で直接ならした方が、響きが豊かだと解った。台はとりやめ、隅に置きやられた。

演奏者、教会での録音の時には、教会の年代物の扉をはずして、台の上に置き、その上で演奏していた経験からクロードに台を要請してきたのであった。。

コントロールルームに向かって、大理石を背にした場所が、最もいい場所だと、演奏者も言い、10人ほどの聴衆にどうであろう?と聞き、良しということとなった。

床のフローリングは楢材のようで、持ちこんだヒッコリーの35ミリの板のみを下において聞いてみようということに成り、上にイスを置き、二本の弓を取出し床の上に置き、手持ちの音差ヘルツ計とでもいうのだろうか?それにて、弦の調整を始めた。

それまでに、何度も音チェックの弦の響きに、ふくよかで、暖かく、ブワーンと響くその音の中で動き回っていた10人ほどの聴衆は、位置が決まって演奏者がイスに座り、初めてのように音だしするその瞬間を緊張をこらえて佇んでいた。

たーらら らららら らーらら らーらーと、バッハ無伴奏チェロ組曲3番プレリュード出だしである。皆は、この場所が良い、ヒッコリーになって音が良くなったと感じた。

演奏場所が決定した。

 

やっと、落ちついて聴衆を見まわした演奏者「ピーター・ウイスペルウェイ」さんは、視線をきょろきょろさせ、ここにいる人達はどういう人たちですか?と、若い通訳者に聞く。

「一人ひとり、紹介してもらいたい」と言ったように聞こえた。

落ち着かない演奏者の視線は、僕にもそそがれ、すぐにそらされ、違う方向にもきょろきょろと動かしている。それは野獣の動きの様である。野獣と言えば、攻撃する方を想像するだろうが、そうではなく、攻撃されないように、視線がサーチしているようだ。

それぞれにナイス・ミーツ・ユーと握手してまわる、僕の手を、大きくて厚く暖かい手でくるんだ。普通の日本人の表情ではない。自制感や、内省感が感じられない。しいていえば、自閉症児や、情緒不安定児のように動き、感覚だけになっているように見える。

今回の録音は、バッハの無伴奏チェロ組曲1番から6番の曲の中、プレリュードのみ6曲の録音である。全曲ではなく、「東京プレリュード」と銘打って販売の予定だそうだ。

バッハの曲想に違えないだろうかと心配がよぎる(後になって、プレリュード1曲でも終われる、と知ることになる)

 

録音ホールに彼一人となり、明るすぎる照明を落としてほしい、と言い。彼から見えるコントロールルームの照明も落として欲しいと、何度も照明調整する。

やっと演奏時間がやってきた。頃あいは10時になっていただろうか。

コントロームルームには、今回の発注者であるアコリバの社長、日本シャンソン館の羽鳥氏、ジャケット写真家の藤本氏、その夜のドボルザークの協奏曲を聞いてきた音楽批評家の御夫婦、出自の解らないおじさん一人、この僕と、坂原君。正面の機械類の前に座る目にくまのできた録音技師、僕と同じ白髪の譜面を読みながらチェックをする人、その横に、うとうとしながらパソコンの音波グラフを見ている物言わぬ青年、入口には音漏れをふさぐためにドアチェックをする技師の弟子の青年と、あと一人通訳がいる。

一心に演奏者の演奏が始まるのを待っている。

その時、この部屋の長老とも言うべき録音技師が、録音するにはディレクターが要りますが、誰がされますか?と社長と羽鳥氏に向かって言う。ディレクターが、もう一度演奏して欲しい、とか、何小節めを直して欲しいとか、OKを決める。それを、マイクに向かって、通訳者に話してもらわなければならない。その役をどちらかが決めないといけない。両人とも初めてのようで、それには荷が重過ぎそうと感じる。

羽鳥氏、では私がやりますと申請する。

通訳、テイクワンと、マイクに告げる。

 

初めに何番から始まったか、多分一番だったろうが覚えがない。

音の軽さに驚いたのだ。

ふむ バッハ?

あの、かた苦しいバッハ?

若すぎる。

バッハはこんなに若くはない。

しかし、

聞くにつれて、音から感情がたちあらわれてくる。

演奏者は、恍惚としている。

だが、曲の中に、入りきってはいない、覚めた目で良くしようとする意志の中にいる。

ふくよかな気持ち、胸苦しくなる旋律、ふっと息の抜ける解放感、

あたたかい!

青年のバッハが恋に生き、絶望に襲われ、落ち込んでいる。

有頂天になり、孤独になり、平静にもどる。

へんこつバッハおじさんが、みずみずしい、そして、若若しい、ロマンチックな青年バッハになっている。

バロックの時代の音楽でも、こんなにロマンにあふれた音楽として演奏できるのだ。

音は、ソフトで、あたたかくやさしい。刺激音が高音にも低音にも存在しない。

低音が唸りすぎない。

クラシック音楽と他の音楽との違いは、一つの音に責任を持って鳴らすところである。

ポピュラーなら、一つのフレーズで充分だが。

日本映画に・・・ローマの市街地を恋人二人が建物の中を錯綜しながら、やっとたどり着いた教会の2階の窓から見えるイスに座った数十人の聴衆と、一心不乱に演奏するチェリストのバッハ無伴奏が、教会の中全体に響き渡る映画を見た。すごい!と感動した覚えがある。

それは、曲そのものの強さに唖然とした。

覗いて聴くシーンが、同じだと思いだした。

しかし、ここではあの荘厳なバッハではなく、頬に赤身を帯びた青年バッハの音楽である。

 

演奏者は、5回も6回も繰り返し同じ曲を演奏し、そのたび、曲調を変化させ、長くのばし、短く切り替え、そして、はなから始め、また繰り返す。25回もテイクを繰り返すこともあった。

録音技師が、もう一度やってもらいます?と羽鳥氏に聞く、一回ずつ指示をしなければいけない、これは大変な作業である。決定しなければいけない。でもどれを良しとして、どれをダメだと思えばいいのか?音の間違いだけは、素人の僕でも解るが、どのテイクもニュアンスの違いはあるが、青年バッハの多感さが表れている。

その時、演奏者うなだれ演奏を中止した。

それを見た羽鳥氏が、「だんだん音が詰まって来る」と述べた。

僕は、思うのであるが、日本人の良き特性として「思い図る」ということがある。

演奏者は先程あの大曲ドボルザークのコンチェルトを引いてきたばかりだ。彼なら何曲かのアンコールを演奏したかもしれない、その後、時を置かず、何度も何度もテイクを重ねている、可哀そうだ、もう疲れきっているだろう、そんなにやってもらわなくてもいい。これが日本人の思う心である。

羽鳥氏は、この気持ちに、良い演奏を録音しなければならないと、ディレクター、プロデューサーの立場も加わっている。

僕には人の心なぞ知りやしないが、羽鳥氏は、演奏者が可哀そうになったのではないだろうか?それが、プロデューサーの込み入った言葉として現れたのだと思う。

僕は、初めの挨拶の時、羽鳥氏が演奏者と会話しているところにいたのだ。

演奏者がどんな演奏がいいですか?と羽鳥氏に聞いたんだと思う。

羽鳥氏は、「わたしは、ピーターさんの演奏は、軽やかだと思うのです」。と答えた。

かのピーターさんは両手を広げ「ブラボー」と叫んだ。

その時の、僕の気分は「バッハが軽やか?嘘だろー」と内心、心配した。

しかし、羽鳥氏のおっしゃる通りであった。

 

録音技師、「それは演奏者に伝えなければならない。演奏がダメなら今日は中止にした方が良い」と、羽鳥氏に伝える。一同青くなった。

録音技師、羽鳥氏、社長、通訳そろって、ドアを開け、憔悴しきっているように見えた演奏者のところに行き、話し合っている。マイクオフにしているので、内容は解らない。

しばらくして帰ってきた録音技師が、

「演奏者は自分で良いか悪いかは判定して、自分で決定している」という、やさしい返事。一同安心して微笑んでいる。

羽鳥氏が一番落ち着いたことだろう。

この体力は超人的だと、社長述べる。憔悴していると思ったのは、やはり、そう思う環境であったからだ。

 

録音再開する。いまだ5分も休んでいない。

4曲目何番だかは定かではない、最後に5番、その前が3番それだけは覚えている。

12時ごろであったか。

一曲に平均15,6回は録音している。初めから通しであったり、何小節めであったり、特に初めの4小節は、大切だとしてどれも何回も録音した。

失敗すると、大きく唸ったり、人差し指を顔の前に立ててもう一回を繰り返した。

弓を持つ右手より弦を押さえる左手が疲れるようで、左腕を肩から回して緊張をほぐしている。

左手の弦を押える力に強度がいるのだろう、しかし、弦を叩く音は気にはならない。

コントロームルームは、私語もなく静かに聞き入っている。

時折、長老が指示したり、通訳のテイク何という言葉が、聞こえるだけだ。

静かな僕たちを見て、「眠れているかい?」「皆眠ってもいいよ」とスピーカーから聞こえる。

演奏者の実音ではなく、部屋に作りつけている大きなスピーカーから聞いているのである。演奏が気に入ると、「イエスー」と叫ぶ、そして立ち上り終わりのお辞儀をする。

気に入らないと、何小節目から始めると言い、引き始める。

僕たちは、演奏者を見続け、毎日このように意識的に練習し、う―だ、あーだ唸りながら、引き続ける演奏者と対峙している。

部屋の中では、感動したも良いも悪いも誰の口からも出ない。

ただただ、聞き耳を立てて、見続けている。

時折、若い通訳が、小さな声でベリーグッドと元気づけている。

 

「5分程休む」と言って、中止して入ってきた。

表情は、きょろきょろした落ち着きのない視線である。が、

疲れているようにも見えない。

中井久夫が「分裂病と人類」でのべている。

16世紀のヨーロッパの農村荒廃は、我が国よりも広範囲で激烈なものであった。

これに対するルネサンス宮廷は、幻想的な解決方法で、全くの失敗に終わった。

この失敗の責任転嫁が「魔女狩り」の原因であるだろう。

そして、この完全な手詰まりを救ったのが、

オランダの「インターナショナル・カルヴイニズム」の

「魂が究極に救われるか否かは人間のはからいを超えたものであり、ひとは神から与えられた現世の天職にいそしむべきである」という思想とともに

重商主義と干拓技術と勤勉清潔の日常倫理で生きることであった。

オランダの干拓事業を見たゲーテは、「瞬間よ止まれ、お前は美しい」と賛辞をあたえたほどである。

中井は、農耕民は、執着気質的職業倫理を持ち、狩猟採集民的分裂気質者を執着気質者に仕立て直すという。

狩猟採集民は、三日前に通ったカモシカの足跡を乾いた石の上に認知し、かすかな草の乱れや風の運ぶかすかな香りから、狩りの対象の存在を認知する。

微妙な気配や変化・兆候に非常によく反応し、起こるべきことを常に先取りする。

強迫気質・執着気質・粘着気質の農耕社会の文明の中にあっても、
シャーマン・預言者・王・学者・芸術家として未来を先取りし、革命的指導者となることがある。と述べる。

農耕民は出来上がった物の維持、修復、改革は得意だが、

狩猟採集民はそのシステムの変革が行える。しかし、

狩猟採集民は社会的管理や支配が存在せず、対人不和が生じれば逃げるだけであり、その為ストレスに弱く、失敗に学ばない、毎回同じ過ちを繰り返す。

「人類が強迫的産業社会に不適合な分裂型親和気質者を、抱え込んでいるのは、わざわいではなく、逆に希望なのである」と述べている。

長々と引用してしまったが、演奏者がきょろきょろしている視線を考えるに、実はきょろきょろではなく、狩猟者の視線かもしれないと、思ったからである。

思っただけで本当かどうか解った物ではないが。

中井は続けて「エチオピアは、もっとも非強迫的、非執着的な社会である。

宮廷の女官たちは、テーブルに平行に、あるいは直角に食器を並べられない。

そろえられないのだ。日本から手伝いに行った人たちは、彼女たちは知能が低いと判断した。しかし、その他の文化を検討してみると、エチオピアではそのような並行に並べる強迫、執着に価値を置いていないことが分かった。

彼らは、一瞥にして相手の信頼性を正確に把握できる比類ない直観力を持ち、

技術の一身具現性の卓越がみられる。

今の狩猟採集気質者にとって最もくつろぎを感じうる社会ではあるまいか?」と述べる。

 

休憩中、パソコン画面の前に座るお兄ちゃん、隣の譜面とにらめっこしている師匠に、この調子で、一本にまとまりますか?と、不安げに聞いている。

うとうとしているのは、眠ってはいなかったのだ。

師匠、「大丈夫まとまる」白髪の譜面師自信ありげに、ちらっと後ろにいる僕と目を合わせて言う。

一回づつの演奏が、同じ曲の中でも変化しているから、その部分を足し合わせても物になるということだ。

 

通訳に、この若き音楽の感想を、伝えてもらいたいと思った。だが、このメンバーの中では最も音楽業界から遠く隔たっており、音楽は好きではあっても、ただそれだけの素人なので、ついに声をかけれなかった。

頑固バッハおじさんだと思っていたが、あなたの演奏で、みずみずしく、若々しいバッハお兄さんが現れた。と。

この変化は大変なもので、かつて、グレン・グールドが、ゴールドベルク変奏曲を、情感豊かに演奏して一世風靡した現象を思い起こしたのだ。


プレリュード何番をその曲だけ聞いてもいいのである。

またこの「東京プレリュード」が済めば、「東京サラバンド」と続けてもいいかもしれない。

演奏者は、今日は2時までかかる、と予言していたようであるが、深夜2時10分に終了した。(乗っている時は、そういうことが見えることもある)

皆で暖かい拍手で迎えて終わった。

その時になって、目のまわりは疲弊を表し黒ずみ、しかし、

変わらず我々に愛想を振りまいて、手を振って通訳と共に帰って行った。

僕たちが、引き上げたのは3時になっていた。

 

日本でも、縄文時代人は、11世紀まで、縄文社会、狩猟採集社会としてあった。

なにも、終わった過去のことではない。遺伝子として狩猟採集民としても顕在である。

そして、その者たちは社会不適合に苦しんでいる。

赤坂憲雄は現代も縄文は東北に続いていると言う。

と言うのも[ピーター・ウィスペルウェイ]さんは、そういう仲間ではないか、という感触があったからである。

視線の動き、落ち着かない感じは環境へのチェックを、つねに行っているからだろう。

仕留めなければならない獲物と、攻撃されるかもしれない不安との戦い。

強迫農耕民の執拗な同化抑圧と差別、

フロイトの言う「文化にひそむ不快なもの」との対決。

オランダが特に、完成された農耕社会を築いたなら、迫害も強かっただろう。

その上、今まで誰も演奏したことのない無伴奏チェロ組曲を作った。

並はずれた才能だと思えるのに、そう思わせないほど自然に引ききった。

 

音楽は、最高潮に達すると、音が消えて、作曲家がその場にたたずみ、作曲家の魂と言えるものだけが、現れてくる瞬間がある。

録音スタジオでは、繰り返し同じ曲を演奏し、それでも常にバッハお兄さんと言う感触を得られるのであるから、演奏会場で、一発必中の演奏がなされれば、ピーター・ウイスペルウェイの魂と、バッハの魂が一体となって、音からも離れた、聴衆、演奏者、作曲家が浮遊する至福の時間が現れるだろう。

僕はといえば、夜に弱いと自覚している割には、終わらないで欲しいと、朝まででもこの演奏が続いて欲しいと願っていただけであった。

 

2011年 11月18日

 

2016年6月8日水曜日

良寛さん

江戸後期、良寛さんは、たくさんの平明で解り易い和歌を残し、漢詩で信条や思いを表し、空海以上だと言われる書を書いた。書聖と言われる王羲之と並ぶほどだと吉本隆明は「良寛」に書いている。その和歌を、年代順に、また、心情に沿って写しました。
良寛さんの和歌は、毎日のことごとや、思いを僕にでも伝わるように歌っている。目立って多い「袖を涙で濡らす」と、寂しさや、苦しさや、嘆き、また後期の恋歌とも思われる和歌が、良寛さんが身近な人だと感じるゆえんにも思います、が、道元禅の修行を果たし、高名な師に印可を授けられ、どこのお寺でも住職が務まる位にある人でした。自分はのほほんとして大愚であり、何の役にも立たないものだと、気質を受け入れていますが、何か悲しげです。最後には、彼女の前で「くそまみれだ」と歌う良寛さんの歌を味わってください。


良寛さん

 

還暦を過ぎると岩波文庫の赤本から黄本に変わると言われる。

読書の傾向が西洋物から和物に変わるということだ。

世界のすべての芸術に淫して偏愛する友人が、書物から映像作品、音楽、絵画等僕のもとに廻してくれる。その彼もこのところ日本文学に傾倒しはじめた。

ほとんど僕の趣味は彼の趣味の延長上にある。

そうして和物を読んでいると、いたるところに腑に落ちるところがある。

西洋物では考えられないことだった。

「漂泊」物を読み始め、この言葉の「気持ちのいい響き」を考えてみたくなった。

僕は、漂泊とまでいかなくても、休みになると海に行く習性、学生時代の一人旅、青年になっても宗谷岬や鹿児島までのヒッチハイク、真冬の小便器の前の棚に寝ころんでの睡眠、電話ボックスの中腰を曲げての眠り、クマが出るとおどされた旭川の夜中の山歩き。(そういう旅から帰って,畳で休むと数日するとまた旅に出たくなったものだ)

父親の兄弟の行き倒れや、生地四国での遍路の見聞きによる漂う感はあったのだと思う。しかし、この感情は自分の記憶からだけ思い起こされるものではないような気がする。

ドイツの社会学者ジンメルが述べるように、「漂泊」には世のシガラミから解放される自由そのものがあるからだ。

生活の困難さ(生きとし生けるもの、困難を含まない生命はない。大木でさえ地中に自己を攻撃してくる敵を毒殺しようと待機しているのだから)はさておき、漂泊という自由から紡ぎだされた数々の芸能と芸術。

定住民は漂泊民によって作る物語や歌舞音曲、絵画、彫刻、さまざまな芸術によって救出される。

 

かつて、農村に放浪してきた画家は、その村の名主や庄屋に居候した。

そして、飲食をむさぼった返礼に画や書を寄贈した。

その家には、両親やじじ、ばば、子供たちに使用人たちが生活している。

その中、画家は昼寝し、放庇し、大声をあげた。

子供たちを釣りに誘い、大ボラを吹いて、世人たちをあわてさせもしたであろう。

朝夕と言わず飲み明け、

しらふの折に、襖に向かって筆を走らせる。

毎日の生活の中に、紛れ込んだ異人。

調和を乱す漂泊者。

彼が居ることによっておこる場の破たん。

それらは、定住者たちにとって、ちょうど道化師が訪れたようなおかしみを伴っていた。台風が来る恐怖と畏敬と似て、過ぎ去ると清らかな朝の空気が訪れた。

生活にピリオドがうたれ、考え方の変化が起こり、なにやら楽しみともなった。

変化のない毎日に辟易していた定住者たちには、明けの明星のように心躍る日々であったかもしれない。波風のない水面に、一条の光と成って、ひとつぶの流星がみなもを騒がせているようである。まれびととして発生した漂泊者は、定住者のなかで、生気を誕生させ、ひとびとにすがすがしい朝を体験させた。

そうして僕は漂泊の民の末裔であるのだ。

いまさら土着定住から脱出することを勧めているわけではない。

定着の居つき(トラウマ)から避難する場所が出来れば満足だと言える。

居つくとは武道で使われる言葉である。

居つく状態は攻撃されやすく、動きが遅くなる。常にすり足で体重移動出来る状態に入ることが、生存に有利であるということだ。

トラウマも精神が居ついた状態である。定住とトラウマが即同じ状態とは言えないけれど、なにはともあれ、居つかないに越したことはない。

居つかない漂泊民のほとんどは近世になって賤として差別を受けることになる。

居つかない民には、霊的能力(芸術的力)があり、その力に恐怖したのだ

それらがまとまって、権力に刃向かわなく制度化したものが、非民、部落民としての差別であった。

漂泊者によって救われる定住民がかつてはいたのだ。

四国遍路を接待する地元の人々、もっと古くは、神としてまろびととして神代からの人々がぼろをまとった乞食に施しをすることによって、自身の供養、罪滅ぼしとなった。

施しは善行であると考える仏教の影響によって、過剰に持っている物は、持っていないものに施さなければ罪が消えないという融通無碍という考えがあった。

定住民は施しをしなければ、心が痛んだのだ。そうしてトラウマを癒すことができた。

施しをすることによって、自身が救われたのである。

 

ここでやっと、良寛さんのことが書ける。

良寛は、古代越八カ国に先住した越蝦夷、近畿政権下で定着農耕に従事せず、中世に山の民、川の民、海の民であった人々の末裔である。

生地出雲崎からは、彼らが作ったと思われる縄文土器が出土していることで判る。

出雲崎にある尼瀬は海人部落として差別を受け、良寛も尼瀬の海人につながる系統であったようだ。一休が天皇の庶子であったことを考えると、両者のへだたりは大きい。自分の背後には古代越八カ国があるという実感を背負っていた良寛と、万世一系の天皇家である。

良寛は詩、歌、書をものしたが、詩、書については、僕ははなはだおぼつかない。

歌については「良寛の歌は人間即歌である。その人その心即歌である。自然随順の生活即その歌の根源である。」と歌人の吉野秀雄が述べる。僕にも、そうだとうなずけるほどには、歌に感じいることが出来る。

良寛は「昼行燈」とあだ名され、論語、荘子など読みふけり、名主の見習いを止め18歳で尼瀬にある曹洞周光照寺に出家した。

その後、備の玉島円通寺に剃髪染衣の身となり、道元禅を実践する。

円通寺の国仙老子の印可の偈によると

「良や愚の如く、道うたた寛し

謄騰任運、誰を得て看しめん

為に附す山形爛籐の杖

到る処壁間、午睡のびやかなり」

師の国仙は、良寛の「愚か」と見えるありかたそのものに、廊然たる道が通じているとみた。その見事な「任運謄謄(とうとう)」ぶり、縁にそって、あらしめらるるがままの「のほほん(騰騰)」とした生き方、彼がみずから「大愚」と号し、無為、無能を自称するのも、師のこの鑑識を彼が肯定していたからだ。と入矢義高は述べる。

円通寺には11年修行し、師亡きあと34歳で諸国行脚のこつじきの旅に出る。

「濱風も心して吹けちはやふる神の社に宿りせし夜は」

廃屋に泊まり、杉木立の中の社に一人寝泊まりした。

「思いきや道の芝草折しきてこよひも同じ仮寝せむとは」

「紀の国の高野のおくの古寺に杉のしずくを聞きあかしつつ」

「山おろしいたくな吹きそ墨染の衣かたしき旅寝せる夜は」

「さ夜あらしいたくな吹きそさらでだに草の庵はさびしきものを」

「ふるさとへ行く人あらば言づてむ今日近江路をわれ越えにきと」

「ささの葉にふるやあられのふるさとの宿にもこよひ月をみるらむ」

「草枕夜毎にかはるやどりにも結ぶはおなじ古里のゆめ」

 

良寛は、数年漂泊した後、郷里出雲崎に帰る。

弟由之の住む生家の前を素通りし、浜続きの郷本まで歩き、塩焼き小屋の廃屋をねぐらとして托鉢した。その頃塩焼き小屋の一つが焼けた。漁師らは良寛の仕業と思い込み生き埋めにしようとした。たまたまそこを通りかかった近郷の医師が助け、「何故弁解しなかったか」と問うた。良寛は、「弁ずるも許されず、弁ぜざるにしかず」と答えたという。「私は火などはなたない。」と言ったところで、疑ったものは聞きいれる訳がない、それなら、言い訳などしない心構えをすれば済む、という。

「20年来郷里に帰る.旧友は死に果てており、何もかも変ってしまった」と詩に書く良寛は、そうして亡くした人を持つ人たちに、たくさんの歌をささげた。

「この里の往き来の人はあまたあれど君死なければさびしかりけり」

「弥彦(いやひこ)のを峰うち越すつづらおり十九や二十を限りとして」

「ますらおや共泣きせじと思えどもけぶり見る時むせかえりつつ」

「かいなでて負ひてひたして乳ふふめて今日は枯野におくるなりけり」

「あずさゆみ春は春ともおもほえずすぎにし子らがことを思えば」

「人の子の遊ぶをみればにはたずみ流るる涙とどめかねつも」

「もの思ひすべなき時はうち出でて古野に生ふるなずなをぞ摘む」

「ますかがみ手にとり持ちて今日の日もながめ暮しつ影と姿と」

「いつまでか何歎くらむなげけどもつきせぬものを心まどひに」

「子を思ひ思う心のままならばその子に何の罪をおほせむ」

「あらたまの年はふれども面影のなほ目の前に見ゆる心か」

「世の中に玉も黄金も何かせむ一人ある子にわかれる身は」

「なげけどもかひなきものを懲りもせでまたも涙のせき来るはなぞ」

「花見てもいとど心は慰まずすぎにし子らがことを思いて」

「煙だに天つみ空に消えはてて面影のみぞ形見ならまし」

亡き子にささげる歌には「子供をみまかりたる親の心の代わりにてよめる」と、詞書がある。

 

良寛は、この地で乞食宣言を書く。

「食を受くるは仏家の命脈なり、それ仏家の家風は乞食をもって活計をなし、行鉢を恒規となす。これらは皆受食の法にして調身のかなめなり。・・・」食べ物を無心することに、ためらいのない姿は、日常的であったのだ。

五合庵に定住するには、これから十年先である。それまでは、出雲崎のそと、寺泊から、国上山にいたる、あちこちの空庵を転々としていた。

良寛は、男にも、女にも、大人にも、子供にもどんな職業の者とも、分け隔てなく、一切無差別に接した。

もはや美も醜も、善も悪も、真も偽も、差別がなく、ただ目の前のあるがままの万象を肯定し、同時にあるがままの一物一体を理解し尊重し、しみじみと湧きだす愛をもって包み了せようとする自然柔順の態度をこそ、彼のこひねがうぎりぎりの生き方であると思い至った。と、研究者は書く。

「ひさかたの雲居をわたる雁がねも羽白妙に雪や降るらむ」

「雪どけに御坂を越さば心してたどり越してよその山坂を」

「わが宿の軒端に春のたちしより心は野べにありにけるかな」

「うぐひすの初音は今日とわがいえば君はきのうといふぞくやしき」

「あしひきのこの山里の夕月夜ほのかに見るは梅の花かも」

「鶯の声を聞きつるあしたより春の心になりにけるかな」

「ひさかたの雨の晴れ間に出でてみれば青みわたりぬ四方の山々」

「深見草今を盛りに咲きにけり手折るるも惜しし手折らぬも惜し」

「時鳥いたくな鳴きそさらでだに草の庵はさびしきものを」

「さびしさに草のいほりを出でてみれば稲葉おしなみ秋風ぞ吹く」

「越に来てまだ越なれぬわれなれやうたて寒さの肌にせちなる」

「日は暮れて浜辺をゆけば千鳥鳴くどうとは知らず心細さよ」

良寛の若き道友であった大忍魯仙は「良寛老禅師、愚の如く痴の如し、心身すべて脱落、何物か又疑うべけん。名利の境に住まず、是非の岐に遊ばず。朝には何処に向かって往き、夕べには何処に向かってか帰る。かの世人の誉むるに任せ、かの世人の歎くに任す。・・・」と、「良寛道人を憶う」に詩一遍がある。良寛はどこへ行くかを知らなかったし、どこからきたかも知らなかった。明日をもたなかったし、明日をも知らなかった。と言う。

「浮雲のいづくを宿とさだめねば風のまにまに日をおくりつつ」

「うき雲のまつこともなき身にしあれば風の心に任すべらなり」

 

真言宗の古刹国上寺(こくじょうじ)は、弥彦山の南、国上(くがみ)山中にある。寺から二百メートル離れ、麓からは杉の巨木に挟まれた急坂を登り、山中に孤立した中腹に五合庵がある。良寛はよほどこの地が気に入ったのか、断続的に五年、定住して十年ここに暮らした。

「いざここに我身は老いんあしびきの国上の山の松の下庵」

「沓なくて里へも出でずなりにけりおぼしめしませ山住みの身を」

「柴の戸の冬の夕べのさびしさをうき世の人にいかで語らん」

「岩がねをしたたる水を命にて今年の冬もしのぎつるかも」

「今よりはいくつ寝ればか春は来ん月日よみつつ待たぬ日はなし」

「なにとなくこころさやぎていねられずあしたは春のはじめと思えば」

「世の中にまじらぬとにはあらむどもひとり遊びぞ我はまされる」

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」

「こひしくばたづねて来ませわが宿は越の山もとたどりたどりに」

「あはれさはいつはあれども葛の葉の裏吹き返す秋の風」

「山住みのあはれを誰に語らましまれにも人の来ても訪はねば」

「いまよりは往き来の人も絶えぬべし日に日に雪の降るばかりして」

「ひさかたの雪踏みわけて来ませ君柴のいほりにひと夜語らむ」

「なきあとの形見ともがな春は花夏ほととぎす秋はもみじは」

「今更に死なば死なめと思へども心にそはぬいのちなりけり」

「かにかくにかはらぬものは涙なり人の見る目をしのぶばかりに」

良寛はみずからを多病僧とよぶほど病に独り苦しんだ。

楽しみは、麓で良寛を待つ子供たちのあそび戯れる嬉々とした顔であった。

「子どもらと手たずさわりて春の野に若菜をつめばたぬしくあるかな」

「かすみ立つ長き春日を子供らと手まりつきつつ此の日くらし」

「この宮の森の木したに子供らとあそぶ春日になりにけらしも」

「この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし」

「あずさゆみ春の山べに子供らとつみしかたこを食べばいかがあらむ」

「冬ごもり春さるくれば飯乞ふと草のいほりを立ち出でて」

「里にい行けばたまほこの道のちまたに子どもらが今を春べと」

「手まりつくひふみよいむな汝がつけば吾はうたひあがつけば
 なはうたひつきてうたひて霞立つ長き春日を暮らしつるかも」

「いざ子ども山べに行かん菫見に明日さえ散らば如何にとかせん」

良寛は、「児童は余を驚かすを以て楽しみと為す者也、余は児童の楽しむ所以を以て楽しみと為す。児童楽しみ、余もまた楽しむ。一挙両楽なり。以て常と為す。真の楽しみのこれより大なるはなし。」と、詩につづる。

 

良寛の伝記に、弟の由子の妻から、「長男が放蕩をして困るので、良寛さん何か言ってやってください」と頼まれる。良寛が三泊して帰る折になって、やっと、せがれの名を呼び「帰るから草鞋をはかせておくれ」と言った。長男が、かがんで草履を履かせていると、背中に冷たいものが当たる。顔をあげて良寛を見ると、涙があふれていた。

良寛は、だれにも説教はしなかったが、自分への戒語はたくさん作っていた。

彼らを不憫だと思っただろうし、可哀そうに思えただろう。母の気持ちも考えただろうし、弟,由子に何か言ってやりたかっただろう。だが、何も言わなかった。「おとうさん、おかあさんが心配してるよ、」と言ったところで何に成る。生活の心情を変えなさい.また。禅寺で修業しなさい。というその言葉が、いきわたるだろうか?

また「師、余が家に信宿日を重ぬ、上下自ら和睦し、和気家に充ち、帰り去ると云えども、数日の内、人自ら和す、師と語ること一夕すれば、胸襟清きことを覚ゆ、師さらに内外の経文を説き善をすすむるにもあらず。或いは厨下につきて火を焚き、或いは正堂に座禅す。その話詩文にわたらず、道義におよばず、ゆうゆうとして名状すべきことなし、ただ道徳の人を化するのみ。」と伝える。

良寛には自らを戒める言葉が、100近くあった。それには、

一、  学者めきたるはなし、

二、  さとりくさきはなし

三、  風雅めきたる

四、  唐ことばを好みてつかう

五、  都ことばなど覚えてしたりがほにいう

六、  いなかものの江戸ことば

七、  人をうやまい過ぎる

八、  へつらう

九、  詩人の詩

十、  書家の書

十一、      料理人の料理

十二、      公事のはなし

 

五合庵を病の身で過ごす良寛は、麓に移り国上山中乙子神社に十年宿す。

国上山は上古には「越(こし)の山」と呼ばれ、越の蝦夷の地であった。平地は湿地帯で、稲穂の民は定住せず。その地を、山の民、川の民、海の民が治めて、農耕地とした。

親鸞が布教を開始し始めたのも、これらの太子と呼ばれる輩であった。金堀り、鋳物師、木地師、そま人、塗師、桧物師、紺掻き、仏像・堂塔の民たちを、「タイシ」と賤称したのだ。

酒呑童子はこの地で生まれ、近江伊吹山を経て大江山に至り、農作物を略奪し、婦女をさらって食ったと言われる。その為農民から鬼と呼ばれて恐れられた。「タイシ」の怨念が酒天童子となったのであろうか?大和の民は、縄文顔を鬼としたのだ。

佐渡流罪になった日蓮は、自らを海人が子、東夷(あずまえびす)、賤民の子と言った。

良寛は日蓮の唱える法華経から、「常に軽蔑された者」という常不軽菩薩を讃嘆する。常不軽菩薩は、「われ深く汝らをうやまう。敢えて軽しめあなどらず。所以は何かん。汝らは皆菩薩の道を行じて、まさに仏となることを得べければなり」とただ人々を礼拝してまわる。人々は怒って彼を打ったが、遠くに逃げ去って、大声で「われ汝らを軽しめず、汝らは皆まさに仏となるひとである」と叫んだ。

この人間信頼と人間礼拝が良寛に衝撃をあたえた。すべての人々に仏性があり、仏になることが出来ると説く「一切衆生悉有仏性」が良寛そのものとなった。

「法のちりにけがれぬ人はありと聞けどまさ目に一目見しことあらず」

「知る知らぬいざなひたまえ御仏の法の蓮の花のうてなに」

「比丘(僧)はただ万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりけり」

「朝に礼拝を行じ、暮れにも礼拝、ただ礼拝を行じて、この身を送る。南無帰命常不軽、天上天下ただ一人」

良寛は、「あなたは、仏となる人ですよ」と皆に告げた菩薩を感じて、すべての人の平安を願ったのだ。

 

良寛は、山をくだり、島崎能登屋木村家に住まう。

五合庵を想って詩する。

「漸く人間に下る咨嗟するをやめよ

万事みなこれ因縁による

他日もし機の成熟するに遇わば

再び来らん

国上の古道場」

又、籠に飼ひし鳥をみてよめる

「あしびきの山の茂みを恋つらし我も昔の思ほゆらくに」

漂泊の自由と矜持を失ったじぶん自身を歌った。

波間を漂う繋がれざる船、不繋舟とおのれを呼ぶ良寛は、国上山も船着き場、停泊地であったと思わざるを得なかった。と、「漂泊の人良寛」を著した北川省一は言う。

 

この頃良寛は、歩けば書を所望され、偽物の書も出回るほど引っ張り凧であった。

ことわって逃げ出そうとする良寛にあの手この手で引き止めようとするファンの逸話は、はなはだ多い.雨宿りにとびこんだ家では、この機会を逃すまじと、執筆をたのまれる。

「雨の降る日はあはれなり良寛坊」

この遺墨が多いのはそのためである。皆にせがまれて、仕様がなくしたためたのだ。

 

貞心尼は、良寛に師事したいと、推敲した和歌一首とお手製の手まりとを持って能登家を訪れる。貞心尼三〇歳良寛七〇歳である。

貞心尼、師つねに手まりをもて遊び給ふとききて承るとて

「これぞこのほとけのみちにあそびつつつくやつくせぬみのりなるらむ」

良寛、御かへし

「つきて見よひふみよいむなやここのとを十とをさめてまたはじまるを」

貞心尼はじめてあひ見たてまつりて

「きみにかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおもう」

良寛御かへし

「ゆめの世にかつまどろびてゆめをまたかたるもゆめもそれがまにまに」

「またもこよしばのいほりをいとはずばすすきをばなのつゆをわけわけ」

貞心尼は初めて良寛に会った一夜を、その後良寛歌集として『はちすの露』に編む。

その序に「こは師のおほむ形見とかたはらにおき、朝ゆふにとりて見つつ、こし方しのぶよすがにもとてなむ」と、五年にわたる師弟の歌を残し、貞心尼、明治五年の死地柏崎で歌集を発見され、良寛の島崎での最晩年の思い出深い記憶となった。

「さすたけの君がおくりしにひまりをつきてかぞえてこの日くらしつ」

「あしひきの山の椎柴折り焼きて君と語らむ大和言の葉」

「いかにせん牛にあせすとおもひしも恋のおもにを今はつみけり」

「君や忘る道やかくるるこの頃は待てど暮らせど音づれもなき」

「心さへ変らざりせばはふつたのたえずむかはむ千代も八千代も」

「いついつと待ちにし人は来りけり今はあい見て何かおもはむ」

「あきはぎのはなさくころは来てみませいのちまたくばともにかざさむ」

「いざさらばわれはかへらむきみはここにいやすくいねよはやあすにせむ」

「うたやよまむてまりやつかむ野にやでむここころひとつをさだめかねつも」

その後良寛の容態は悪化し、下痢が止まなくなる。

「ぬばたまのよるはすがらにくそ(糞)まりあかしあからひくひるはかはや(厠)にはしりあへなく」

「言に出でていへばやすけりくだりはらまことその身はいやたへがたし」

「しほのりの山のあなたに君おきてひとりしぬればいけりともなし」

来年の春に会いたいと。

「あずさゆみはるになりなばくさのいほをとくでてきませあひたきものを」

貞心尼「かくて師走の末つかた、にわかにおもらせ給うよし、人のもとより知らせたりければ、打ち驚きていそぎもうで見奉るに、さのみなやましき御気しきにもあらず、床のうへに座しいたまへるが、おのが来りしをうれしとやおもほしけむ」

良寛

「いついつと待ちにし人は来たりけり今はあい見て何かおもはむ」

「むさし野の草葉の露のながらひてながらひはつるみにしあらねば」

貞心尼・・かかればひるよる御かたわらに有りて、御ありさま見奉りぬるに、ただ日にそへてよわりによはりゆき給ひぬれば、いかんせん、とてもかくても遠からずかくれさせ給ふらめと思ふに、いとかなしくて

「いきしにのさかひはなれてすむみにもさらぬわかれのあるぞかなしき」

良寛・・・御かへし

「うらを見せおもてを見せてちるもみじ」

 

良寛末期の一句である。

良寛の歌う和歌を口ずさむと、この僕の近所で、紅葉葉を愛でている良寛が、佇んでいる。積もる白雪に凍える姿が見えてくる。袖を涙に濡らしてとぼとぼあるく良寛がいる。

こうして味わうことで、作者が立ち現われる芸術に音楽がある。

すべての芸術は音楽にあこがれるというが、良寛の歌は、音楽を聞くと作曲者が現れると同じように、行き来する良寛が現前する。

良寛の歌は、そうして姿を現し、良寛がそこで佇んでいる。

良寛は空海以下ただこの人あるのみといわれ、唐木順三は、「良寛にはどこか日本人の原型のようなところ、最後はあそこだといふやうなところがある。・・最も日本人らしい日本人ではないか」と言う。

縄文土器をつくった原日本人としての寡黙な縄文人が、大愚良寛としてよみがえった。と、良寛研究者が語ることに深くうなずくことができる。

 

近藤蔵人