2017年6月21日水曜日

宇宙の音




 

 

 土曜日、いつもの「コーヒーハウスむじか」で演奏会があった。

クラヴィコードというピアノの最初期の楽器を上尾直毅さんが演奏する。

少し早めにお店に入ると、数人がいすに座って、真ん中にはおもちゃのような箱が置かれていた。4本足の上に、幅およそ1メートル、奥行き40センチ、厚さは10センチぐらいの箱が乗っている。
 

おおよその想像をしていたが、これほど、玩具のように小さいとは思っていなかった。
これで44弦、約4オクターブある。
上尾さんの話だと、オルガン演奏は空気を送り込む人が2人いるので費用も掛かるから、当時の音楽家はこのクラヴイコードを家庭において練習したそうだ。

調音をし始める。

全員が周りを取り囲む、

右隅にある調整用のボルトを10センチほどの調整ナットで締め付けたり、緩めたりしている。シヤンと、か細い音が出る。数十本の弦には、左から赤いフェルトがはさまっている。

きっと演奏は、このフェルトを取って音量を変えるのだろう。音が小さすぎる。

調整の音では、楽器の用をなさない。

弦ごとに白いフェルトを差し込んで調音する。

左手には、スマホを持ってスマホに音を送って調音している。

調整が終わると曲を練習するが、音量のための赤いフェルトは取りかえる様子がない。

この音量がこの楽器の音?少し心配になる。

観客が集まり始めても、フェルトは取らない。
ついに、そのまま演奏が始まった。

クラヴィコードは、イベリア半島、ドイツ圏で盛んに演奏されたようで、16世紀の聞くことのない作曲家の曲から始まった。

観客全員が体を起こし、前のめりになり顔を少しでも楽器に近づけて微弱な音を聞こうとしている。

口琴楽器の音を聴くときのようだと思った。

右手は軽やかで超特急なフレーズが流れ、主旋律と装飾音が、行きつ戻りつしながら部屋中を充満する。
左手は通奏低音がリズムを刻みメロディーを補佐する。
耳をそばだてると、低音も効果的に響いている。

音量はかように小さいが、タッチは軽く、鍵盤をたたくと瞬時に音が出る。

オルガンやクラブサンは、音量の強弱を鍵盤では出せないが、クラヴィコードでは、音量の調整が出来る。
指の早急な動きが、瞬時に音となって現れる。

当時は、指の練習はクラブサンで、表現の練習はクラヴィコードでと言われたように、オルガン、クラブサンより、表現能力があると思われる。

それは、この楽器の反応の速さが他の楽器より図抜けているからかもしれない。

ギターは、胴の中を音が通過するのでこれより遅い。

ピアノは、反響版が大きいのでこれほど早く音にならない。

そういう意味でチェンバロも同じだ。

バイオリンは胴が小さくても、指使いが容易でなくて、クラヴィコードほど早く音をひけない。

 

よーく聞くために、目をつぶる。

音が、空間に広がって乱舞している。

個人が作曲して、自然愛好家の写実主義の画家のように自然に寄り添うように、作曲家に寄り添って弾く演奏者も、また個人である。

だが、この音の粒立ちは、個人性をはく奪されて、宇宙のしじまから聞こえてくる静寂の音のように聞こえる。静寂には音がないと思われるだろうが、宇宙の静寂は、夜空を飽かず眺めていると、そのように言うしかない響きを感じるものだ。

徐々に目が重たくなる。そうしているうちに僕のしじまのなかにはいりこんでしまった。

恥ずかしいことだ。うとうととしている脳髄が聴く宇宙の静寂の音の乱舞。え?これ今思うと、うとうと効果?

このところの睡眠不足が、目を開けていることを不可能にしてしまった。

今家では、新しいスピーカーで夜遅くまでいろいろなCDを聴き、夜中トイレに起きると、2時でも3時でもアンプのスイッチを入れてまた朝までCD を探し始める。

昼間眠いわけだ。

それは、新聞や著名人のツイッターやフェイスブックを見て政権の悪意を感じ、そのため胃が弱り、下痢となってしまって憂鬱で過ごしていると、そのスピーカーが治癒してくれた。下痢が睡眠不足に変化しただけだけれど、下痢も嫌だけれど、睡眠不足も大変だ。

手の力がゆるんで右手で持っていたパンフレットが滑り落ちる。ふっと覚醒するが、また、しじまが呼んでいる。

前半が終わった。

外で、一服し明るい外光の中、青空を見あげる。
気持ちのいい風が、庭木を揺るがしている。

コーヒーをいただき、クッキーを友人の分まで食べて、一息入れられた。

 

東南アジアの奥地の原住民の調査に、偽娩と言う風習があると書かれている。

奥方が出産の時、奥方の隣で横になったご主人が奥方と同じ声をあげながら出産に立ち会うという。奥方を勇気づけるということもあるのだろうが、深く心が動いた。

婦人と同じように膝を立てて横になり、汗をかきながらいきみ、苦痛と言うか、快感と言うか大声をあげながら、奥方と同時刻に、赤ん坊を産み終える。
夫婦はどんな瞬間でも同じでいたいということだろう。
それには僕も覚えがある。妻の懐妊を聞いて、いつも同じでいるにはどうすればいいんだろうと考えたことがある。
懐妊も出産も僕は経験することはできない。
これからは夫婦であっても別の道を歩むしかないのかと、考え込んでしまった。

だが、未開な人たちが夫婦同じ経験をする方法を示している。

その彼らが口琴楽器を演奏している。口の中に糸状の繊維を張り、指ではじいて、メロディーか?リズムを刻む。音は微弱だ。
恋人たちが肩寄せ合って、耳をそばだてながら二人が一人のようになって音の中に入り込む。

クラヴィアコードの音を聴いて、そのことを思い出した。

そして、耳をそばだてて音を聴くことに、少し注意してみようと思う。

家では、スピーカーから聞こえる音のリアリティーをあげるためと、音量を大きめで聞いている。
人の声もマンネリズムがおおっている。
耳をそばだてるとは、聞こえるか聞こえないかの瀬戸際にも、真摯な気持ちが宿っている、それを聴くことなのだろう。

耳をそばだてる。いい言葉だ。

 

宇宙には、電子が飛び陽子が飛び中性子がニュートリノなどを囲んで飛び回っている。

それらが集まって原子を生成し、チリができ、様々な分子が出来る。

マイナスの電子も、プラスの陽子も何億年と寿命があるが、中性子は15分に一回分裂し、ニュートリノとクオークなどに分かれ、人の体には1秒間に何兆ものニュートリノが通過していると言う。カミオカンデは、それらの質量を測る装置だそうだ。

太陽も月も高速で公転し、地球も高速で自転している。

流星が地球近くを飛翔している音が聞こえる人もいる。

これらが、実は音のみなもとではないだろうか。

電子にも陽子にもニュートリノにも質量があるか研究されている。

それらが集まって質量のある原子になるのだから、簡単に物質を通過するニュウトリノにも質量があるのだろう。

質量があるものが、いきかい、乱れ飛ぶと音は発生するだろう。

それらが衝突して、破裂音も出ているだろう。

恒星の公転する音、惑星の音などが混じって、微弱な音を探知する機械には、録音もできるだろう。

しかし、人は、録音されたような音を聴いているのではないと思う。

 

日本の最初期の物語が「竹取物語」である。

竹の中の光り輝くかぐや姫と、時を経て月に帰らなければならない経緯は、
僕らが、原子の集まりで出来ており、それが多細胞となって膜で覆われたとき、
光となって宇宙を飛び回っていた自由から、
囚われの身と感じる僕らの感覚、
いつか帰りたと思う感覚を思い出させる。

それがかぐや姫の物語りを書き起こし記憶に残した原因だと想像する。

死して死臭を漂わせ、分子となり原子となって、中性子の分裂でニュートリノになって、すべての物質を通過するその自由にあこがれる。エロスとタナトス。

人はそのために、生きている間は虚無を感じなければならない。

たどり着けない自由への願望が、人生の虚無となって思い詰める。

だから、宇宙の音は、短調でなければならない。

後半はフローベルガーを聴き、バッハのシャコンヌを神尾さんのアレンジで聴いた。
フローベルガーは、思い入れたっぷいに、現代曲風に弾かれ、シャコンヌは、誰が弾いても名曲ゆえに感慨深いが、神尾さんは曲調の人間的で、悲しみも、苦しみも十分に表現されていた。
宇宙的な音から、ロマン的な音まで、この静かな楽器は過去の遺物ではなく、静寂の音のゆえに、聴く人への魔力という驚くべき特性を持っている。
 

 

                      近藤蔵人

2017年6月16日金曜日

自然の力


このところ、政治や国それによる個人のことを考えて、いろいろ文章にしたのだけれど、こと政治に関してブログはやめているので、書きっぱなしになっている。

そのため憂鬱になってしまって胃痛と下痢がおき、昨年の9月に起きた左足の半月板損傷が、足の力をなくし、ゆるいびっこになっている。総じて老人性倦怠症だ。

5月中頃、今まで聞いていたステレオを売り払い、僕と同年に作られたスピーカーを手に入れ聞きほれていると時間が狂ってしまい、20日間近く3時間睡眠状態になってしまった。

部屋に広がる音学を聞き、楽しんでいる間は恍惚としているのだけれど、疲れがひどくなって、聞く時間を少なくしても、3時間睡眠は癖になり、よけいに体調を崩してしまった。

山でノンだけと付き合い、日差しも少ない森の中で暮らしていると、街で寝泊りすることなど考えられないが、それでも、気分転換が必要と感じるようになった。

なれる、あきる、人は不幸せなことだ。

先週思い切って粟島に行くことにした。

びっこの足で、風に身体を持っていかれないかと心配するが、釣行の楽しみが優先している。民宿は、釣り師でいっぱいで磯渡しできないと言うが、泊まれればいい。

岩船からのフェリーは、強風と波のため立って歩くことがむずかしい。

船の中では、僕たちは熟睡したが、乗客は、揺れのひどさにビニール袋を持って嘔吐している人が何人もいる。

粟島に着くと昼ご飯を食べて、釣りの状況を船頭に聞くと、波高く釣り師全員キャンセル、宿の客は僕たち二人だけとのこと。

宿に荷物を降ろし、タイを狙って堤防の先端で竿を出す。岸辺では、アジやタナゴが釣れているが、僕は、沖目に浮子を漂わせている。時折小魚の当たりがあるが、この日は、4,50センチのイナダだけ。久しぶりの無我夢中の釣りに堪能した。

翌日、4時から籏崎の磯へ向かった。仲間を後ろに、すたこら岩場を進んでいる。足の痛さは、なんのその、早くポイントについて、早朝のいい時間に釣りをしたいと言う思いが、何物にも負けない意志であった。力が入らないと思っていた左足は、普段と同じ調子にもどったようだ。

岩場の先端で4時間集中し、緊張して竿先の当たりを感じていたが、小物しか釣れなかった。まあ、こんなもんだ。4時間の集中が、今日の一番の取柄であった。

 

養老孟司が「都会で苦しくなったら、原生林でⅠ週間でも暮らせば治る」と書いている。

毎日、足の力のなさを感じて、歩くのも面倒だったが、自然真っ只中の釣りは、思い込みを遮断する効力がある。

2,30年前、釣り好きの兄が、右の肩が50肩で、仕事にならないので休みがちだったが、釣りの幹事をしていたので、日本海まで仲間をつれていって会を催したそうだ。

帰って言うには、「チヌが2枚釣れた。」え?竿を振れたの?と聞くと。

右手で竿を持っても痛みがなかったそうだ。

ひどい腰痛も、心理的要因の場合があると言う。

苦痛な会社勤めの毎日も、自然は人を素の状態に戻してくれるのではないだろうか。

この憂鬱な社会情勢で、体調を崩す人は多いと思う。それほどにメンタルな面は体調に現れる。

 

そんな時、ペドロ・アルモドバルの、「ジュリエッタ」と、ジム・ジャームッシュの「誰のせいでもない」を続けて見た。

映画は映画の技法をふんだんに使って、過去と現在が交錯したり、次々と事態が変化したり、構成に緻密さを求める場合が多いが、この2作の映画を見て感じたことは、ごくオーソドックスな場面進行と、人の物語になっていることだ。

映画は、複雑怪奇で何なんだろう?と思わせながら終わるのが、良い映画であることが多い。解ってしまった映画は、底が浅くてつまらない。

この映画は、まるで、小津安二郎の映画の現代版のように感じる。技巧が目立たない。

2作とも、心に傷を負った人間の傷の深さとそれによる廻りの人々の影響、傷を負ったまま何年も過ごすことによって、人格形成される姿。この2監督は、指折りの作品で定評があるベテラン監督だ。その監督の落ち着き先が、こういう映画になったところに、感じるものがある。

人が生きると言うことに映画を捧げた監督の思考。

これは、日本でヒットした「この世界の片隅に」での主題と共通する。

政治も経済も、生きるには少なからず影響されるが、そんなことは主題にする価値はない。表現したいのは、誰でもおちいる人生の悲しさと宿命についてだ。とでもいう感じだろうか?

 

地球には70億の人間がいるが、70億とおりのすべてを表現することは不可能だけれど、ひとりの人間を、人類の普遍的象徴として描ければ、作品は成功と言える。この映画もそういうことでいい映画であった。

また、僕たちは70億の世界中の人と友達になることは出来る。

音楽が気持ちを表現することで、世界中の人たちと通じることができるように、人は、人と通じることは出来る。

しかし、国を優先に考える人は、自立、防衛、経済的野望を志向するから、敵対することが起る。

国は、コップや住宅のように、現存するものではない。あると思うことにしただけだ。その国が心配になると、誰でも国民を見下すことになる。国は全国民を目指して政治するべきで、国土や政府が最優先ではない。