2016年11月20日日曜日

この世界の片隅に


「この世界の片隅に」(監督・片淵須直)の女優のんが演じる主人公は 、のほほんとしている。
 戦時中の呉と広島の物語を、6年の歳月をかけて当時の風景を忠実に描いたアニメ、今年一番の映画だとか、傑作、奇跡的な作品だと言われている。
 この映画は、自主制作アニメであることと、主人公ののんが、大手芸能事務所から離反したこともあり、メディアでは黙視されているため、草の根的に広がり、今では、上映映画館が少ないためもあるが、ほとんど満席立ち見だそうだ。群馬では上映館がない、見るのはDVDになってからだろう。
映画の事ではなく、のほほんな生活について考えてみたい。のほほんと言ってもどんな生活か想像するために、のほほんの反対の意味から考えてみると解りがいい。あわただしい生活、切羽詰まった生活、いそがしい生活、そういう風にも考えられるが、いつも気をつけないといけない生活が一番ぴったりとする。
 片時も余裕がなく、心配し続けること、気を付けなければならないことが山ほどある。無意識のうちに気をつけなければならないことを探している。そういう生活がのほほん生活の対極だろう。のほほん生活は、空襲があっても、何があっても気にしない。出来ることをやるだけ。そうして、青空に漂う雲を「ああ!いいてんきだなー」と眺める。
映画はまだ見ていないのだが、主人公ののんが、今年の主演女優賞をあげたいほどに、のほほんとした声だそうだ。観客のほとんどは、そののほほんさに涙して、帰りの電車の中でも思い出して涙がとまらなかったと言う。

 アメリカ映画を見ていると、夫婦仲が気になる。
たいてい奥さんが怒鳴り声をあげ、旦那がそれに同じ感情で返している。それでも、その日のパーティに二人して子供を預けて出ていく。会場では、妻を右手で抱きかかえ仲の良い夫婦を自然に演じられる。
 調べると人類学的に民族によって家族の在り方に変化がある。日本では「夫婦仲が悪い」「母と娘は寄り添っている」「父と息子は会話しない」「母と息子は大変なことになっている」などの癖がある。僕は大変になっている一人なので、いちいちよく解る。
 欧米では、夫婦仲が良くないと社会生活がなりたたないほどに仲の良さを気に掛ける。だからと言うか、それだからと言うか、ほんとに仲の良い夫婦が築かれるし、仲が悪くなれば離婚するので離婚数はべらぼうに多い。日本は、男同士の会話では、妻の愚痴は話しても、ほめるようなことはない。仲が悪くても、それを他人に知られても、恥ずかしいという感情はない。人間の普遍的な真実というものは変わらず存在するが、民俗学的変異というものがあり、地域によって同じではないということだ。
 日本で離婚数が少ないのは、夫婦それぞれに、離婚するより我慢して、仲が良くなくても、会話がなくても、仲が悪いことが普通なので継続した生活ができる。
 夫婦仲が良くすぐに離婚する民族と、夫婦仲が悪く離婚数が少ない民族では、地域の伝統というものがあるので甲乙つけるべきではないだろう。長年の歴史から、この民族はどういうスタイルであれば、家族が存続できるか、子供を自立させられるか、そういうスタイルが根付いてきているのだから、夫婦であいさつのキスをするとか、会えばハグするとかを、日本ではできないよなーと嘆くことはない。
 僕は愚痴が多いよなーとひがむことがあるが、それで普通なんだとガッテンするといけないのかな?


宮沢賢治に、農民芸術概論というタイトルの文章がある。下に写して見ます。

かってわれらの師父たちはとぼしいながら可成り楽しく生きていた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が、生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換されしかも科学は冷たく暗い
芸術はいまわれらを離れしかもわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善もしくは美を独占し売るものである
われらに買うべき力もなく、又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き、われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃やせ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ、来ってわれらに交われ、世界よ、他意なきわれらを容れよ

大正15年岩手国民高等学校や羅須地人協会で講演した記録が残された文章です。賢治の文章では残されていません。また、その文章中に
「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」
「無意識部から溢れるものでなければ多く無力か詐欺である」
「職業芸術家は一度ほろびねばならぬ。誰人もみな芸術家たる感受をなせ。個性の溢れる方面において各々止む無き表現をなせ」「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」
「われらに要るものは銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱である」
賢治も近代の悩みを抱えた人です。
吉本隆明は「僕が若いときは、賢治になれると思っていた。老年になって、賢治と比べて堕落した自分がある」と、賢治の研ぎ澄まされた詩文、一行とも賢治の意志から外れることのない童話の文章を、吉本がとどかなかったと悔いているのです。
簡単に解釈すれば、吉本には、宇宙の力、微塵となった自分を創造することがなかった、文章に残さなかった点にあるように思います。賢治は我らの体の最小単位である原子が飛び散った宇宙、電子、陽子、中性子、それから発散されたニュウートリノなどを、自分の故郷と感じることができたでしょう。
日本で最初の物語である竹取物語では、竹の中の光輝く姫が大きくなり、この世の謳歌を約束する帝の求婚をもうけつけず、月に帰って行く。姫にとって宇宙が自分の故郷という物語が最初の物語であることの不思議を感ぜずにはおれません。

 心は宇宙にあり、それぞれの人に降りてくると数学者が提唱しています。数学の真理のように心はあるといいます。太極拳や合気道は、大気に満ちた気を自分に取り入れる稽古をします。気配ともいいます。
のほほんさんは、自然を感受することで、自分に気を取り入れていると考えられます。のほほんになるには自然への感受性が必要です。地球は僕たち人間に荒らされ、環境破壊が取り上げられますが、心の自然が荒らされたことへの提示はほとんどなされていない。人は、気を付けるという人工的なことへのみ集中している。

何か手に入れる時、美を尊重するか、機能を尊重するかして手に入れます。おおかたは機能が優先されます。ちゃんとするとか、きちんとするには、美の力はおよびません。うつくしいは忘れ去られたようです。そうして、ひとつひとつ気にして、計算して毎日が過ぎていきます。しかし、「この世界の片隅に」に感涙する人が多いということは、のほほんにあこがれる心性がここからも育つということでしょう。






2016年11月10日木曜日

鍋の淵





ドラえもんを見ると、スネ夫以外は、ごく普通の中流家庭の育ち。のび太にしてもジャイアンにしても、少しすましたしずかちゃんも、子供らしく生きている感じがするが、スネ夫は少し意地悪すぎるように演出されている。
昭和30年40年、外遊びしかできない子供たちが、生き生きとした表情で遊んでいたことを思い出す。そんな中、お金持ちの子は無表情で、とび回って遊んでいなかった。スネ夫のような子はいなかったと思う。下々の子と遊んではいけないと言われているのか、いつも小言を言われるからか、年中半ズボンで、隅っこでつまらなそうに見ていただけだ。
 孫に、のび太ってドラえもんを頼りすぎじゃあないと言うと、そう、ドラえもんがいるからのび太はバカのままと、そっけない。
 朝、犬の散歩で、通学する子供たちを相手に、「白線から出ると 交通事故になるし、カゼをひくよ」と注意する。皆どうして風邪をひくのといぶかしそうにしている。そこで「ハックセン!」とくしゃみのまねをする。一人二人、にやっとしても、そのほかは素知らぬ顔でいる。3年の間毎日会って洒落や冗談であいさつしていても、かつてのお金持ちの子供よろしく、無表情の子ばかりだ。
 渡辺京二先生が「生きるってことは、沸騰した鍋の淵にいるようなものだ。だから、甲斐のある人生を送って欲しい」と言っている。それぞれの人が、いきいきと生きる方法を考えて欲しいと言っている。
 日本が右傾化しようと、性格破綻者のアメリカ大統領が、何を言おうと、生活者には、どうでもいいことだ。津波は不意にやってくるし、考え抜かれた情報操作で政府に都合がいいことをされようと、我々は、甲斐のある人生を送ればいいのだ。かつての人々はそうして生きてきた。
 良寛さんのように「災難にあう折は、災難にあうが良く、死ぬるときが来れば、死ぬが良い」とは我々にはちょっと不可能だが、日々いきいきと、ときには煙草でもくゆらせて、苦虫をかみつぶした表情をやわらげることもできよう。