2017年11月19日日曜日

ハグとなぐさめ

「ハグとなぐさめ」

 



無著と世親 運慶作 鎌倉時代 興福寺 

 

 

映画「マンチェスター、バイ、ザ、シー」には、ハグの場面が数十回出てくる。欧米の映画ではハグは普通に行われるが、この映画の回数は飛びぬけて多い。

主人公の兄のお葬式に慰問客が来たときと帰るときに、肩をたたきながら頬を近寄せてハグをする。また兄弟や友人たちが会うたびにハグをし頬にキスをする。親子でも夫婦でも、子供たちへもハグをする。

主人公の不始末によって、4人の子供たちが焼死してしまうこころが壊れた主人公の物語であるから、挨拶や、なぐさめや、抱擁によって、人とのつながりを描くハグは必要な行為だろう。ハグしようとしても出来なくて腕をさすったり、肩に手を当てたりするシーも何度かある。死ぬに死ねなくて、かたくなに心を閉ざした主人公を演じた俳優は、アカデミー主演男優賞をとる。

見ていて違和感がないのは、彼の演技が自然であることと、日本人の現代の生き方と、そう隔たっていない感じがするからだ。

我々は、主人公のようにかたくなになってしまった。にこやかで気持ちよく生きている人を見ることは少ない。

主人公は、泥酔して暖炉の薪から家を燃やし、4人の子供たちを死なせる。奥方は、狂ったように荒れ、彼をののしり、暴れ、挙句に離婚する。映画の冒頭、兄の子供に冗談を言って舟遊びをするシーンが写される。家に帰ると4人の子供たちを一人ずつ抱きかかえ、子煩悩、子供好きな主人公を丁寧に説明している。

主人公は、再婚した奥方にうまく顔合わせが出来ない。兄の葬式で二人はぎこちないハグをするが、主人公の目は泳いでいる。

しばらくして、主人公と元奥方が道で行きあう。

奥方が泣き崩れて、私は壊れてしまったの、あなたにひどいことを言った私を許して、あなたを愛してると彼の腕に手を寄せる。奥方は再生したが彼はいまだ生きていない。彼は、いやーとかそうではないとか、罪の意識が消えるわけではない。それでも、そういってもらえると嬉しいと彼女に告げる。奥方は、こんなに苦しそうでと何とかなぐさめたかったのだ。しかし、ハグをする雰囲気にはならない。

兄がなくなって、可愛がった16歳の男の子の面倒を見ることになる。人と接触したくない主人公だが、敬愛していた兄のことを考えると、少年を学校に送り迎えしたり、少年の若いセックス友達のもとに車で送って行ったりする。ここで、主人公の生きていない人生と、少年の気ままに生きている人生の対比が行われ、魅力的な少年に引っ張られて、主人公は徐々に生き始める。

ざっとこのようなストーリーのこれほど暗い映画がアカデミー賞の候補になった。この映画では、なぐさめなんてとんでもない、そんなもので自分は許されるはずがない、それでも、不自然なハグをされ、体に慰めのタッチを受け、少年との接触によって、なぐさめを得て、再生される。

我々には、なぐさめられたと感じないなぐさめが必要なのだろう。

 

かつて、書いたことがあるが、移民社会は、仲間の識別のために、握手から、ハグ、頬へのキスが行われる,母子の愛情表現を大人になっても続けていると信じる。

エレベーターで同乗者に挨拶をするアメリカ人と知らんふりをする日本人。アメリカ人は、敵か味方か判断しなければならないが、我々は、他の人を敵と想像することはない。

日本社会は、聖徳太子の時代では、縄文人が先に来て、台湾などの南から来た人々、中国揚子江近辺からの海洋民、韓国から、また、モンゴル方面からと移民社会であっただろう。そのため、太子は「和を持って」といさめたが、その後、千数百年を経、同一民族と勘違いするほど落ち着いてくると、言わぬが仏とか、くちは災いの元、減らず口をたたくなとか、4の5の言うなとか、話さなくても通じる社会を目指してきたように思える。

思いやりという言葉がそれを表している。日本人は、握手やハグの代わりに、思いやりでコミュニケーションを果たしてきた。悲しいことがあっても、抱いてなぐさめることはまれで、そばで、思いやりに満ちた表情をすることで相手を慰める。同一の価値観で生きてきたこれまでの社会では、それで十分だったかもしれない。
写真の右側の世親の表情は悲しさを感じた思いやりに満ちている。人々は仏像を見て手を合わせなぐさめられる。

日本では、刀狩がおこなわれ廃刀令が明治に施行されて、民衆は自分を守るための武器を持たなくなった。かたや、アメリカでは、これほどたびたび銃乱射事件が起きても、自己防衛のための銃は規制されない。これは、移民社会であることによって、他者と仲間の識別、他者からの自己防御を常に必要とする社会であるからだ。

日本でも今や状況が変化して、個人主義としてコミュティーに価値を置かない者が一般的になると、思いやりは言葉にしないでは解らないと言い募るようになっている。そのため孤独がいや増してきていると感じる。仏像に手を合わせてなぐさめを得ることはない。苦しみの対処法がない時代になっている。

そういう中で、彼らのハグを見ると羨ましくなることがある。悲しめば声をかけて抱いてあげ、苦しそうにしていれば静かにハグをする。我々は、1メートルほど他人が近づけば違和感があるが、彼らは、頬と頬を合わせ、キスまでする。子供のころの母親への接触と同じことを、大人になってもやっている。時には、知らない人が悲しんでいたらハグすることがある。仲間と感じたら、子供から大人になっても体を付けて抱き合うのだ。悲しんでいる人は、抱かれることで、なぐさめられ幾らか悲しみが薄れるのだろう。

友人が亡くなるとき、僕にはなぐさめられなかったという悔みが付いて回った。欧米人ならハグして相手と同化しただろう。死の床で手を握ることしかできなかった。

日本人は、気づかいをする。アメリカへ行った友人は、言うべきことを言えば、後は気づかいしないから楽だ、と言っていた。

論理的に生きている西洋人は、ハグをして子供時代のように他人と接触しなぐさめあう、情念を優先する日本人は、大人として気づかいで他人と付き合う。我々は、甘えをゆるされず大人になることを強制されるのだ。

伝統的な習慣がどうしてこうなったかは理解できないが、今は、気づかいで疲れ果てて、出来るだけ人と接触しない生き方になっているように思う。

 

鎌倉時代、世は荒れ、いたるところで諍いがあった。それまで仏教は、宮廷人、武士等上級者への宗教であったが、庶民の苦しみをなぐさめる宗教、救いをこの時代になって初めて考える人が現れ始めた。仏教が土着して根付居た時代といえるだろう。農業者、漁業者、徘徊者など市井の人々は、難行苦行によって救われることには無理がある。易業、たやすいつとめで救い、なぐさめが得られる宗教が必要だった。それが南無阿弥陀仏の親鸞であり南無妙法蓮華経の日蓮、武士たちの座禅の道元と鎌倉時代に、新しい仏教が始まった。

同じころ、運慶仏師は、無著と世親の仏像を彫っている。貼り付けているのでよく見ていただきたい。

無著は世の闇を凝視し、苦しみを秘めた表情をしている。世親はそのような人々に慰めの視線を送る。日本屈指のこの彫刻は、人の非情を見つめ、人の悲しみをやさしく解きほぐそうとする。興福寺では無著世親は兄弟として左右に置かれている。非情となぐさめ、現実認識と仏教によるなぐさめを一体づつ、運慶は渾身の作として作った。

当時子を死なせた人びとはあまたあっただろう。
江戸時代の良寛は子を亡くした親のこころに代わりて読めると、何篇もの歌を作った。
その一篇。「かしのみの唯一人子に捨てられてわが身ばかりとなりにしものを」

わが身ばかりとなったその現実認識を無著がなし、良寛が亡き子を追悼して歌ったように、罪の許しとなぐさめは世親があたる。宗教が人々に必要な時代があり、宗教になぐさめられる人びとがいた。

だが、この映画にはキリストは出てこない、この映画には宗教性が皆無だった。

現代は、宗教で救われたり癒されたりなぐさめられることがない。

 

鎌倉時代の親鸞さんがすごいところは、僕たちが持っていて変えることの出来ない、欲望とか、ねたみ、恨み、意地の悪さなどの煩悩を、自分の意志・自力で直そうとすることはない、と言ってしまう所だ。それらを克服しようと、座禅を組んだり難行苦行をするお坊さんはあまたいても、悟りと言う境地までたどり着くことは、親鸞は無理だときっぱり答えた。

人には意志力があり、直そうとすることは出来ても、備わってしまったそれらの煩悩のほうが強固で、意志力では太刀打ちできないと、9歳から28歳まで比叡山延暦寺での苦行の末つかまえた信念だろう。

しかし、欲望や、悪事に忠実であれ、と言っているわけではない。

親鸞は、浄土教の教えにある一人ひとりを救うには限りがある、仏になって全員を救わなければ菩薩にはならないと誓ったその阿弥陀様に向かって「南無阿弥陀仏」と唱えれば、阿弥陀様が救ってくれると、衆従に向かって布教した。

出来ない自力はあきらめ、阿弥陀様に頼る他力をすすめた。

現代人には、なにやら阿弥陀様も、経典もにわかに信じられない。実は、親鸞も信じているだけで、この世が地獄だから、裏切られても同じ地獄なら信じてもいいだろうと覚悟したと歎異抄で言っている。

親鸞の弟子である唯円が、親鸞の言葉を聞き書きした歎異抄に「阿弥陀さまのおはからいにおまかせして、自然のことわりにしたがって生きていますのならば、仏恩も知り、また師の恩も知るべきなり」と書かれている。

阿弥陀様のおはからいに任せておすがりする生き方は、悪事や煩悩を無化するところがある。悪事や煩悩と知りつつ行動しても南無阿弥陀仏と唱えると阿弥陀様が救ってくれる。

僕も、ある時一度だけ南無阿弥陀仏と、声に出さず口にしたことがある。不思議に口にしたことに驚き、そののちの、夜の静けさにふーむと相槌をうった。

そして、この文章の肝心なところは、自然のことわりに従って生きると書いているところである。仏教的に生きる、悪事も欲望も煩悩であると知ると同時に、自然の摂理に沿って生きると考えるなら、親鸞のいう宗教は、そんなに違和感なく身近なものと考えることが出来る。

人は、生来自分の自然に沿って生きている。
勝海舟の父親の小吉のように悪さを止められないエネルギー過多で生まれた人もいれば、とんまだとかうすのろと言われた良寛のようにのほほんとして生まれた人もいる。それぞれの自然があることに自分で知らなけなければならない。ちなみに僕は、軟弱気質で虚弱体質なので、悪人であることには違いないが、大した悪事は出来ない。
それでも親鸞は悪人の方が救われると言っている。善人は自力を捨てきれないが、悪人はそのまま他力になれる。

中井久夫先生が「無意識へと抑圧されたかっとうの解放は、神経症の治療と完全な成熟に達せしめる」と書いている。これは、例えば傷ついた場所にばんそうこうを張って直すようなものと考えていいと思う。生まれ持った煩悩ではなく、生まれ育てられる際に傷つき無意識に抑圧された心は、発見し納得しなければいつまでも繰り返すことになる。

親鸞の書いた「教行信証」には、生涯に南無弥陀仏と一回となえるだけでも良いと記されている。

 

親鸞の考えに親和性のある思想がある。エドモンド・バーグのとなえた保守主義という考え方だ。

人間は、道徳的にも認識的にも不完全にできている。社会も不完全な人間が作るものだから不完全にしかできない。歴史的に積み重ねられた伝統、慣習、常識などは、理性を超えて少しずつ変化しながら、成長したり衰退したりする。それを不完全な理性で、急きょ理想を作ることは出来ない。社会は一歩一歩変化するに任せるしかない。

親鸞の自力と他力思想とほとんど同じことを言っている。不完全なものはしようがない、そのままでいい。不完全な理性でなすことは自力ととらえやってはいけない。

 

要するに、橋本治氏が「人間はバカなのだから、自分のバカと共生して平和にいきるしかない」というのはその通りだと思う。ソクラテスが「わたしは知らないことを知っている」と言い、親鸞は「愛欲も煩悩も消し去ることは出来ない」と言う。

西洋人がロゴス(論理)を言葉にし、論理の苦手な日本人は情念を表す違いがある。

自分は不完全であることを認識し、徹底的に知ることが生きることで、南無阿弥陀仏と唱えられない我我は、ハグの習慣もなく、思いやりも通じにくくなっている。それでも、バカですいませんと気持ちよく生きたいと思う。そして、僕のことで言えば、一人歌を歌うことで自分をなぐさめている。センチメンタルこの上ないが、これが気持ちのいいものだ。

「ふしあわせというなのねこがいる。
いつもわたしのそばにぴったりよりそっている。

ふしあわせというなのねこがいる。
だからわたしはひとりぼっちじゃない。

このつぎはるがきたなら、むかえにくるといった。
あのひとのうそつき、もうはるなんてきやしない。

ふしあわせというなのねこがいる。
だからわたしは、ひとりぼっちじゃない。
                   寺山修二作

2017年10月27日金曜日

花のことば「9」




花のことば「9」


 

花ちゃんの堪忍袋の緒(かんにんぶくろのお)が切れたようだ。

11月に伊勢崎市内全校の小学4年生がコーラスの発表会を行うに当たって、音楽の授業で課題曲を練習している時のことだ。

音楽の先生は、今年、はなちゃんの小学校に転任してきた50代の女教師で、夏の奈良旅行で、はなちゃんが物まねをして、家族一同大笑いした熱意溢れる、また、音楽の意味をよく理解した先生だ。

発表会の練習を見せてもらったが、始まると、先生がワンフレーズ優しい声で歌うと生徒たちは同じようにやさしく歌い、元気な声になると子供たちも元気に歌い、長く伸ばして最後の音程をあげて伸ばすと、子供たちも同じように歌う。小さな声、小鳥のような声、いろいろな歌い方を子供たちに示すと、子供たちがそれに習って声を出す。
先生の声はちいさく、水のようにすき通っている。子供たちの声は、4年生だから低音は出ていないが、とても素直な声に、コスモスの花畑のように多種類な声というわけではないが、色違いの可憐な花で統一されているという印象を受ける。

授業が始まって数分で、この先生のような授業を子供のころ受けたかったと言う思いがする。(おじいちゃんは、初めから最後まで、この歌の歌詞にもある、あふれる涙が止まらない)

はなちゃんが、マネをするので良い先生だろうと思っていたが、こういう感じだとは想像しなかった。教え方や、先生の声を聞いて、はなちゃんは先生を崇拝しているのだと思った。いい先生に巡り合ったものだ。

おじいちゃんが、発表会に行ったら「花ちゃん、頑張れー」て言ってあげるねと言うと、「わたしは、指揮者の先生しか見ていないから、おじいちゃんのことは見ないけれど、帰ったらぼこぼこだからね」と言われた。

先生と練習中、歌詞を覚えていない子や、音程がいい加減な子や、声を出さない子がいて、先生が席を外したときに、はなちゃんは怒らないように気を付けながら

「勉強は、出来る子も出来ない子も、やらなければいけないけれど、芸術は、やらなくてもやっても関係ないと思っているのでしょうが、この発表会は、学校の名誉がかかっているのだから、もっとちゃんとやってよ!」と、堪忍袋の緒が切れて言ってしまったようだ。

音楽の先生は、子供たちを見る経験が豊富で、その上優しい人だろうから注意しない、はなちゃんが先生に成り代わって言ったのだろう。

え?とおじいちゃんはこの話を聞いて心配が先に出た。そんなに目立ってどうするんだろうと考えたのだ。
反抗する子がいて対決しないだろうか?
うじうじした子には恨まれないだろうか?
ええかっこしいだと思う子がいるのではないだろうか、と色々心配が浮かんでしまった。おじいちゃんは、思ったことはほとんど言葉にしないで、こうして、文章にして再考することが多い、そして、子供たちには、大人ぶった態度で接しないようにしているので、花ちゃんが、経験して自分でそこから学んでいけばいいと今では思っている。

エネルギーが過多な子は、生涯いろいろな壁に阻まれて苦労しなければいけないようになっている。のほほんと生まれると壁は少ないが、今度は、もっとはっきりしなさいとうるさく言われることになる。とかく生涯は生きにくい。

それでも、はなちゃんのように、真っすぐで、真面目に人生をとらえる子であれば、願わくば、負けないで続けていければいいなと、祈るよりありません。

 

音楽の先生は、この学年はよく声が出て、「花束」の曲はちょっと難しいし、4部合唱にしたので大変だけれど、うまく歌ってくれています、と、子供たちに拍手をと言われた。2,3じゅう人の父母たちは、惜しみなく拍手をした。

100人ほどの子供たちは、白いシャツに女の子は黒のスカート、男の子は黒のズボンの衣装を着て、大きく体をゆすって歌う子、小刻みに体を曲に合わせて歌う子、指揮者の先生を見ないで大口をあけて歌う子、口が開いているのか歌っていないように見える子、いやだなーともじもじしている子、それでも、左からhighソプラノ、ソプラノ、アルト、低音部と別れて、それぞれがパートに分かれて歌う。
先生が、高いふぁくださいと言うと、ピアノからポンと音が出る。それに合わせて、生徒たちが曲の途中から練習する。
体育館の空間に、すきとおった声が響いている。また、おじいちゃんは涙で裾をぬらしてしまう。

はなちゃんは、一心に指揮者の先生を見ながら、ゆるやかにからだをゆすりながら歌っている。

そういえば、ひと月ほど前に、青木さんと文哉とはなちゃんとおじいちゃんが車で移動中、どこへ行く途中だったんだろ?忘れてしまった。じゃあ歌の時間ね、と珍しくはなちゃんが言うので、じゃあ文哉からと催促すると、車の中では、皆で一人ずつ歌をうたう習慣になっているので、文哉がもじもじしていると、じゃあ私が歌うねと、はなちゃんは歌いたかったんだろう「花束」ね、と、気持ちを込めて歌い始めた。

今までの、一辺倒な歌い方でなく、ピアノシモやフォルテで歌うので、びっくりして聞いていると、難しい曲を最後まで歌ってくれた。青木さんと僕は、すごい!と手がちぎれんばかりに拍手しまくった。

それ以後、また歌ってと、お願いしても拒否されて歌ってくれない。

 

バレーの教室に送るときに、はなちゃんが興奮して、上に書いたこの日の始終を話してくれたので、帰って、婆ちゃんとママに話すと、二人とも、まあ!と開いた口がふさがらない。帰ってきたはなちゃんに、婆ちゃんがいきさつをたずねると、おじいちゃんのことをにらんで、「またはなしたの」と怒っている。
爺ちゃんは、子供の秘密をどうすればいいんだろう?あんまり話しすぎると、打ち明けてくれなくなりそうだ。困った、困った。花ちゃんの忘備録としても、大きくなって読んでもらいたいし、でも、そろそろ、早い思春期を迎えそうで、気を付けなければいけない。

2017年10月4日水曜日

青べか物語(山の隣人その3)


青べか物語

 

夏の夜は、時折、夜鳥が一声二声鳴くきりで静寂に包まれていたが、冷たい風が吹き始める秋の夜は、ジージーピリピリとコオロギの音が一面響き渡る。冷たい雨の翌日には、稲の青さがなくなり、黄色く色づいている。

昼間は心地いい日和になって、ああいい天気だなーと声が出る。

つい先日まで、青い稲穂を囲むあぜに、真っ赤なヒガンバナが美しかったが、黄色い稲穂の上空には、青空と白く漂う雲が広がり、一人空を見上げて何思うなくスーと呼吸する。

 

「青べか物語」という、川島雄三監督の昭和初期の映画があります。原作は山本周五郎です。

スランプに落ちいった小説家が、都内から離れて千葉の漁村に逃れて来る。

青べかというのは、海辺の川につながれ漂っている、水面に浮いているのか、沈んでいるのかわからない古びた青い小船の事です。小説家はこれを買わされ釣りに出かける毎日を過ごします。漁師町では、花魁がふざけ、商人は彼女たちを追いかけ、漁師たちはバカ騒ぎをしています。色と欲だけで生きている人々が、消沈した小説家を生き生きとよみがえらせる、というような物語です。監督は、人々の生態を、紛れ込んで調査して映画にしたのだろうと思います。

この映画に触発されて(僕は確信しています)。スエーデンのラッセ・ハルストレム監督が「マイライフアズアドッグ」という映画にしています。母親にしかられてばかりいるやんちゃな少年が、宇宙船に乗せられたライカ犬と同じだと思っている。帰ってくることのない孤独な犬の事です。母親が病気がちなので、子供を田舎のおじさんに預けます。飼っていた犬も連れていきたいのですが、許してくれません。その犬は、処分されてしまいます。

田舎では、変わった人物ばかりで、毎日が驚きの発見です。そのうち友達もできて、田舎が好きになってしまう、という物語です。この映画は、ラッセ監督の出世作でベストテンに入るほどの人気をとっている。

そんな文章が書けないかと、隣人の物語を書き始めたが、僕の書く文章は、執着とか、無私とか、あるがままの描写にとどまらなく、つい批評めいたことを書いてしまう。

その上、世界は悲劇だとか。

文章は、自己慰撫、自分深入りを目指していて、人に見せることが最初の目標ではない。しかし、書けば、作品にしたくて、まとまりのある文章になるよう添削したりする。テーマに合わせて考えていると、思わぬ解答が湧きでてきたり、それに合わせて書いているとまた方向が変わったり書いてみてやっとわかることがたくさんある。仕事と、文章のことで、近ごろは絵も描かず、文章に頼っている毎日です。

 

良寛さんという、僧に非ず、俗に非ずと言う生き方をした人物は、宗派により禁止されている和歌と詩歌と書に自分を託して、お坊さんを止めて、托鉢乞食のような一生を送りました。皆が名前を知っているように、素晴らしい作品を残しましたが、誰に向かっても書いていません。ただ自分の思うがままに生きていた人です。

良寛さんの文章は2編書いていますが、伝説としていろいろ伝えられていることの一つに、他者をどう思っているかが感じられる文章があります。

良寛の弟の由之が、長男が傍若無人なのでいさめてもらいたいと良寛に頼みました。良寛は、3日逗留しましたが、長男にいつまでたっても何も言いません。帰る時、草履をはかせておくれと長男に頼むと、長男の背中に冷たいものが当たるので、良寛を見ると、涙が落ちていたという話です。

批評しないは良寛が常に心していたことです。

人の複雑さは、言葉でいさめて治るものではありません。しかし、人は悲しい、考えれば考えるほど悲しいと良寛は思ったのでしょう。

まだまだ、良寛さんの境地は夢のようですが、そんな気持ちで書き始めた文章です。

色々な人が色々な人生を生きている。

イタリアの映画監督フェリーニが「人生はお祭りだ楽しまなければ」と「はちかにぶんのいち」という映画の最後に言ったように、やむを得ず生きている人たちの生態が描ければそんな感じが出せるかなと始めた文章ですが。多分僕は、2本の映画と違って、悲しさに、つい我を忘れてしまいがちです。良寛もそうではなかったかと感じています。

 

人間は永遠に不完全な存在です。不完全な人間が作る社会も、永遠に不完全なままです。

希望的、楽観的であるよりも、悪や不完全性を直視し、理性の限界を謙虚に受け入れることのほうが重要だといいます。人は、いつまでも欲や自尊心や負けず嫌いや疑いが起ります。それは避けることのできない思いです。

私たちの行為は、避けることのできないどうしようもないことによって導かれている。

人間の意識が届かないことの起動よって、人は行動する。

人間の行為は、理性を超えたどうしようもないことによって決定されている、あちら側からやってきた契機だけが、行為に道をひらく。

理性を過信して自分で何かしようと思うのではなく、あちら側にまかせる。

すべての「はからい」を捨てた愚者だけが、その愚者の瞬間こそが、絶対他力に導かれた浄土へ導かれる。

あらゆる「はからい」は、如来の本願の側にあり、自分たち人間の側には、自力に依存しないと言う態度しか存在しない。

親鸞と言う人は、悪人でも絶対他力になれば救われると説きます。

僕たちは生涯悟りを開けず悪人のまま生き続けなければなりません。親鸞はそれでいいと言うのです。意識でそれを直すより、そのままで「はからい」を捨てて任せて生きていけばいいと教えます。

正しい行いをしようと思う心が起るのも、宿業が誘いかけるためであり、悪事をはたらこうと思ったり、したりするのも、前世で行った悪が手を加えて左右するからである。

自分の力では、どうしようもないことだといいます。

僕は、お寺にもいかないし、仏教書を耽読しているわけではないのですが、自分では仏教徒だと思っています。勉学にはげみ、そののちそのすべてを捨てさる。そういう道が見えています。

人生は、家族関係人間関係が良好なら半分以上の幸せを手に入れたも同然です。それには人に対する「はからい」を捨てなければならない。あいつの行動が癪に障るのでなく、あんなことをしてら、変な奴だな、で多様性を認めるしかありません。

そして、天然自然に日々喜びが見つけられれば、あとは、どんな災難が来てもしようがないことです。ちょうど、青べか船のように、漂い続けられればね。

2017年9月17日日曜日

山の隣人と大谷さん(2)


 

山の隣人と大谷さん (2)

 

 

アメリカから来た二人の子供たちはうつくしい顔立ちで、二世らしく日本人の和らぎと、アメリカ人の目鼻立ちをしている。

この二人が、山の家の玄関の扉の上に巣を作ったオオルリの子とダブって見える。


オオルリの子は、親を感じると、黄色い口ばしを大きく広げて首を伸ばし、大きな泣き声を出すかと思っていたが、泣き声は出さない。静かなので巣を作ったことも知らなかった。人家の軒先に巣を作るオオルリは、目立たないようにしているのだろう。

小鳥は、エサをやりに来た親が、巣の前でホバリングしている姿を眺めて、もっと長く首を伸ばす。ホバリングするか細いブーンと言う音だけを残して、親はすぐに飛び去る。巣を作っていても、それがテラスの椅子のすぐそばにあるのに、あまりに静かな生活をしているので巣立ったところは見なかった。男親は、うつくしいブルーで、お母さんは、目立たない土色だった。両親は遠いところで甲高い声で鳴くが、子は最後まで泣かなかった。

母親は、子供たちのケガや虫に噛まれないか注意を払っているが、ねこ可愛がりすることはない。子供を育てるのは、猫かわいがりするのではなく、けがをさせない、事故に合わせないなど注意することだと思っている。 親は、よほどの意志力を持たないと、母親から育てられたようにしか子供を育てる方法を知らない。その為母親に育てられた自分の過去が現れる。

二人の子の母がかつて話したことを思い出す。母親の連れ合いに可愛がられ、9歳で冒され、彼が亡くなった時には大声で泣いたと言う。母親に可愛がられた覚えがないため、岳父の非常識な行為でも、愛情と受け取らざるを得ない境遇だった。そういうことがあった場合、男嫌いとなり、男性にさわられることも嫌悪することがあるだろうが、彼女は、9歳で愛情と受け取ったのだ。長じて彼女は時々落ち込んでふさぎ込み、部屋から出られず、生きていないように隠れることがあると言う。9歳の喪失の善悪を自問しているのだろうか。彼女の母親は、薄々とは感じていただろうが、声は出せない状態だったろう。

この話は、映画「プレシャス」とほとんど同じだ。父親に冒されふたりの子を産んだ高校生のプレシャスは、母親に可愛がられることはない。母親は、夫がプレシャスを可愛がるのに我慢が出来ず、暴力を振るい、邪険に扱う。子供に皿を投げ、テレビを投げつける。それでも、子供は母親の愛情を疑わない。私が悪いから母はしかるのだと思う。母親がプレシャスに夫を取られたとカウンセラーに心情を告げるのを聞き、愛されていないことを知り、プレシャスは独り立ちする。
この映画を見た娘の友達は、私みたいだと言ったと言う。彼女たちの為にも映画プレシャスを撮り見てもらうことが必要だったのだ。誰にも、こうすればいいと言うことは出来ない。自分で解決しなければ、いつまでも同じことを続ける。

彼女は、自分にやさしくしてくれる人に敏感で、邪険に扱われると子供時代がよみがえるだろう。これらの過去は、彼女の責任ではない。子を愛さない彼女の母親にも、全面的に責任があると言えないかもしれない。世界は悲惨に満ちている。何事もなく人生が過ぎればいいのだが、ことあるごとに表面に現れて、鬱になり、体調を崩し現実生活がおくれない。

世界は理性で眺めれば喜劇に見え、感情で眺めれば悲劇として見える。

二人の子は、母親にささいなことでも話しかけ、子供たち同士で数分も遊べない。何かあると母親のもとにやってきては報告したり、たずねたりしている。母親が消えてしまわないように気を付けているよう感じた。時々母親が失意によって落ち込み引きこもることがあるので、いつも顔色をうかがっているのではないかと思った。

オオルリは、親が育てたように、子も同じように育てる。

親がそばにいても鳴かないオオルリの子と、親の存在を感じ続けていたい人の子も、幼年時代を背負って、親と同じように子を育てるのだ。

弟は、普通にわんぱくで男の子らしく見えるが、兄は、か細い神経におびえながら生きているように思う。お母さんは遊んでくれないと僕に言い、僕の似顔絵を上手に描き、ピアノも即興でメロディーを奏でていた。この兄は、母親と同じように母親の愛情に飢えて育つだろう。そのためには、この子には、表現の機会を多く与えるといいと思う。表現には、自己慰撫があり、生を充実させるものがある。二人の子供にとっては見守り、抱きしめ、精一杯可愛がることしかないと思う。だが、可愛がるとはどういうことか可愛がられたことのないものはどうすればいいのか?

 

彼女が26歳のころ、笑顔が子供のようで、可憐だった。いつもにこにこしていたように思う。そのとき僕は46歳で今の彼女と同じ年齢だった。欲望を持ち、相手を見る目は幼稚な46歳だったろう。家内の目、自分の立場を守る傾向があったが、女性にはあこがれと、ふつふつとした欲望があった。その時の彼女は壁がなく、まるで天使のようだった。彼女が渡米して僕にとってよかったのかもしれない。女性特有の井戸端会議をすることはなく、確信しか話したくない人のようで、アメリカ生活が自分に合っていると言う。

駅に彼女と二人の子供を迎えに行ったとき、彼女は土色のくるぶしまであるワンピースを着、腰にはベルトがなく、すらりとした頭から下に洋服がおおいかぶさっているようだった。簡単に挨拶をすると、子供たちは、日本語でこんにちはと挨拶をした。20年も経っているのだ、僕の体にも、彼女にも生活が体に染みついていてもしょうがないことだ。

作っていた冷たいビシワソワーズと、ビーフシチュウとチーズケーキを、子供たちは、おかわりをしながら食べてくれた。彼女は、赤ワインを飲みながら、時々食べている。久しぶりに僕もご相伴しようとビールを飲んだが、体調悪く一杯で止めてしまった。

懐かしい話になると、あの時の可憐な笑いがよみがえる。あの人を引き付けるほほえみは何なんだろう。無防備で、今でも脳裏に焼き付いて思い出せるほど魅力的な笑い顔をする。遅くならないうちに帰ることになり、車で駅まで送っていくと、生まれて初めて心のこもったハグを長男から受けた。誰に言われるわけでなく抱きしめられ、ほほにキスしてもいいとたずねると、うんと言うので、腰をかがめ両ほほに僕のほほを当てて、映画のようにできたと思う。

 

なぐさめるということを考え始めると、何か言おうとしても、言葉の不足を感じて僕は言葉が出なかった。それでも、挨拶の後にもう一度まいちゃんと訪ねてきてくれるのだから、大谷さんには不満はなかったと思う。

山の家に来てくれる人には、出来るだけの歓待をしたいと、ただそれだけは心している。それぞれの個性や癖は、自然に身についたものでどうなるものでもない。

それぞれの友人の過去を感じて、今を見つめて、一人住まいのさみしさを、訪ねてくれるのだから、精一杯の料理を食べてもらえればいい。何か話があって来てくれても、料理作りが忙しくて、話さないで帰る人もいただろう。それでもいいと思っている。話すより、料理を食べてもらえればいいと思っている。

言葉は軽くてすぐに消えていく(文章は別だ)。僕は生きるこころの支えが、料理を食べることだと考えているのかもしれない。だいたい人の言葉は、7,80%聞き逃してもいいものだと思っている。ほとんどの話は気分で会話し、自分の気持ちを表現できない。自分の感情を表すことが、自分の人生だと思っている。僕が求めるものは、相手の人生への気持ちだ。それを感じることが出来れば、安心できるように思う。音楽が好きな理由は、その気持ちを表すことが芸術の中でも優れているからだと思う。すべての芸術は音楽を目指す。

安心感を阻害している自己執着の対語は、執着しないとしか言いようがない。仏教用語では無私、無欲ということだろう。僕は自分にそれを課しても、人に言えるほどの行動は出来ない。

 

クサヴィエ・ドランというフランス系映画監督がいる。二十歳で母親との確執を描いた「マイマザー」でカンヌを驚かせ、続く3作ではホモセクシャルをカミングアウトした作品の後、もう一度母親を描いた「マミー」を撮り、「たかが世界の終わり」で今年のカンヌのグランプリをとった。監督と思われる主人公は、34歳のゲイの名をなした脚本家で、12年ぶりに帰郷し家族に自分の死期を知らせに行った、その一日の物語だ。これらには父親は存在せず、自己執着した母親と兄弟の諍いが描かれている。この監督は、主演し、脚本を書き監督もする若き美貌の青年だが、自己を濃縮して表現することを映像に課している。日本人は、仏教徒を経て、自己執着に幾分はずかしさを感じる気味があるが、彼らにはその歴史がない。彼らが使う言葉は、ナイフのように相手を切り刻む。日本人の執着とは異質だ。相手を思いやることがなく、主人公は最後まで自分の死期について話すことが出来ない。大谷さんは、知りあいには最後の挨拶をしたが、主人公は、12年の空白があるせいでもあるが、全員が自己執着が人生の生き方とでも思っているようで、誰にもなぐさめられることなく、追い立てられるように帰って行く。挿入歌に、家庭は港ではないと歌われ、真っ暗な闇の中、我々は生きていくとエンドロールで歌われる。

 

子供が泣いたらだっこしたり、さすったりする。しょんぼりしていたら背中をさすってやる。いい子だなと頭をなぜることもある。

なぐさめるとは、そうした肌を合わせることではないだろうか?と、ふと思う。
日本人は、肌合わせが苦手だ。、握手もしないし、ハグもしない、まして、頬と頬とにキスすることもできない。悲しみにあふれた人を抱きしめて、なぐさめることはない。

人には、準静電界という微弱な電気の膜が体じゅうをおおっている。また、体にも電気は流れている。その電気が相手に流れて、また、相手から流れてきて体内の電気的変換が起って、なぐさめられたり、なぐさめたりしているのではないだろうか?

肩がこった自分の体を自分でマッサージしてもこりは治らない。他者のマッサージによってコリはほぐれる。他者との皮膚への電気的交流によって自分の筋肉が正常になると考えられる。

大谷さんの病室に入った時に、大谷さんを見てその腕に手が向かった。家内は足をさすっている。言葉をかけることは、大谷さんの意識に向かっているが、肌に触れることは、大谷さんの身体に直接染み込むことだろう。

源氏物語に「おもいなぐさむかたありてこそ悲しさをもさますものなめれ」とある。最後の時、なぐさめられるような相手が残っていてこそ、悲しさをやわらげるもののようだと、意訳にある。意識がもうろうとしても、握られている手を感じて、この人が私の代わりに生きていてくれるのだという思いが、死に行く人の悲しみをやわらげると言うことだろう。そうかもしれないと思う。

なぐさめるは慰と書く。白川静の字解によると「火のし(アイロンのこと)して、布が平らかに、のびやかになるように、心がのびやかな状態になること」とある。ちじこまった心を、平安にすることなのだろう。

 

今年の正月は、子供にも会わず、一人で山で3がにちを過ごした。家族でいざこざがあって、山を下りたくなかったのだ。ささいなことなのだが、こらえ性のない僕は、けんかなどはしないが、一人で山にいた。3日目には、孤独感が襲い、これはまた、鬱に落ち込むかもしれないと不安が訪れた。気を付けないといけないと思った。それから、正月から今まで人肌が恋しく感じ続けている。ありていに言えば、添い寝してなぐさめてくれる女性がいればと欲望が起る。

7月アメリカから帰郷する彼女を、様々な思いで想像した。二人で、夜お酒を飲む場所で会いたいと言われて、その後どうなるだろう?と思い。山に来ると連絡があって、泊まるのだろうか?と想像する。彼女の現状を知らないのに、こちらの妄想だけがふくらむ。

人は、いつまでもなぐさめてもらいたいものだと思う。宗教は、信心する人をなぐさめる機能があると思う。神に祈る、すべてが明確だと思っている神に、苦しみを取り除いて、なぐさめて欲しいのだと思う。その時の神は、宇宙に充満する気と考えればいいのだろう。気は電気的にできている。我々生命体を構成する原子は電気的にできているから。

 

音楽は、音波として僕たちの耳が聴き、どうしたことかそれが心にしみる。言語を話す以前は、音楽で意思疎通をしていたと言われる。他の動物の鳴き声が、音楽と思えるように。だから、僕たちは音楽を聴くと、相手の発する音の意味を考えようとする癖がついているのかもしれない。ある種のサルは、ピーピーと鳴き、仲間に敵が来ると知らせ、仲間が逃げると仲間が食べていた実を、独り占めする。そのために泣き声を立てたのだ。音の種類が少ないから、音の微妙な高低で表現するのだろう。

ピアノ曲が、その表現を繊細に表す。しかし、今はバイオリンの話をしたいと思う。このところわけあって、モノラル録音のバイオリンを聴くようになった。レオニード・コーガン、ロシアのバイオリニストだ。ギーコギーコ弦を弓で押さえつけすぎて、美音とは言えない音で演奏する。現代の演奏者は、こんな音は認めないのかもしれない。今では曲に合わせて、音調を変えることが技量と考えている、役者がどんな人物でも演じるように。

コーガンは、曲に合わせて音を変えない。多分変えることが出来ないと思う。朴訥で、無骨そうなコーガンの弾くバッハは、真摯にバッハを身近に感じて、そのまじめさに、心が打たれる。ひとフレーズに込めた思いが自然とこころにしみいる。バッハを表したいという意欲が、バッハとコーガンが一体となって、その追及の真摯な様が、音楽の神髄として聞こえてくる。

次に、ジオット・ヌボーのバイオリンCDが、僕のもとに来るべくしてきた。コーガンは名前こそ知っていたが、ヌボーは聞いたことのないバイオリニストだ。だから、手に入れることなど考えられなかった。コーヒー師匠の熊谷さんが、ダブって買ったと言うので、譲ってもらったものだ。CDケースには、立派な若者が、バイオリンを首に付けて演奏している写真がある。山に帰って、音出しすると、バイオリンの細い線がチリチリと震えている。やさしさの満ちたタッチで、世のすべての人が味わう悲しみが、ことにピアノシモで弾かれると、泣きべそをかいているようだ。どうしてこの人はこのような音を出すことが出来るのだろう。コーガンにしろヌボーにしろ、この人にしか出せない音を出すことが出来る。ヌボーは、では違う音色で弾いてくださいと師匠に指示されても、私はこの音を変えるつもりはありませんと答えたと言う。名手オイストラフが、二位で、ヌボーが一位になったコンクールでは、オイストラフが12歳年上だが、ヌボー譲が、一位で何ら申し分ないと手紙が残っているそうだ。てっきり男性だと思っていたヌボーは飛行機事故で亡くなり、30歳の命の費やするだけの録音しか残っていない女性だった。ティボーにしろ、メニューイン、クライスラー、シゲティーこの時代の人たちは、自分の音をもっていた。

僕たちは、CDで音楽を楽しむ。演奏者は、誰でもいいわけでなく、作曲家に合わせて、一番優れている演奏者の録音を手に入れたいと心掛けている。時には、演奏家に出かけて、生の音で聴く機会があるが、先日、2代のハープシコードの演奏会に出かけた。岡田龍之介さんとお弟子さんの演奏で、岡田さんの演奏は3度目だが、お弟子さんは初めての方だった。岡田さんのバロック以前の音楽は、音楽として気持ちよく聴きこめる。(2時間の演奏を、気を張り詰めて聴きすぎかもしれないが)お弟子さんのバッハは、数分聴くと、気の短い師匠だと、もういい、やめろ!滝にでも打たれて来い!と言いかねない音楽だった。運指の難しい曲であるにしても、気持ちがない音楽は、聞くに堪えない。岡田さんも、もう少し遊びのある音楽をとお弟子さんの曲に対して解説していたが、今日は良くひけました、と、気を使っているように見えた。演奏者としては恐ろしいことだろう。

山のオーディオルームに、17世紀のラ・トゥールが描いた荒野の聖ヨハネの複製の絵を掛けている。16世紀のカラバッジョが、同じ題材の聖ヨハネを、子羊(のちに消している)と十字架と若者が足を広げている図がある。ラツールは100年あとに同じ題材で、カラバッジョへのオマージュのように、荒野の聖ヨハネを画いている。聖ヨハネは、イエスに洗礼をし、サロメの物語で首を切られる人物だ。カラバッジョは町の若者を描いたが、ラツールは、背中をまるめ表情が少し見える横向きの羊飼いの顔を画いた。顔、胸、腹、ふともも、両腕、膝小僧の中には真っ暗な空間があり、横向きの悲しげな表情だからこそだろうが、その真っ暗な空間の中に、世界の悲惨が詰まっていると見えてしまう。大切だと思うから壁にかけているが、それと、同じ思いを抱くヌボーの音楽に感動する。

考えると、これは、ちょっと不自然だろう。ウキウキする音楽があり、引き締まる音楽もある。また、希望を抱く音楽があり、大自然を感じる音楽もある。幸福を感じる音楽に、幸福だと感じても、僕が収集したい音楽は、石川啄木のわれ泣きぬれてカニとたわむるという、大正期のセンチメンタルなものに特化している。僕にとっての音楽は、なぐさめだと思っていて、悲しみの音楽を選ぶ、これは病状なのかもしれない。唯我独尊というわけではないのだから。

作曲家と演奏者が、彼らの気持ちを表現する。

音楽の中に、人が生きている気持ちを表して生きている。

やさしい気持ち、愛情に満ちた気持ち、悲しい、悲惨、孤独、人の気持ちを表す音楽は、旋律の美しさ、音自体の美しさにあふれ、包まれる。作曲者が目の前に現前して、失恋や苦痛に涙している。それを感じて、聴衆は涙ぐむ。(涙と関係ない音楽もたくさんあるが)

気持ちが現れ、その気持ちを感じることに、僕は、なぐさめを感じる。

ほ乳類として、母の胸と乳を経験したものの宿命なのだろうか。