2018年5月10日木曜日

我慢な毎日

山の家を売却することにして、僕は伊勢崎の自宅の一階に住まいを移した。
さすがに、静かな木立の中に住まっているときとは違って、すこし、うろたえているが、それも仕様がないだろう。
今は、自分の部屋に、音楽と映画を見る方法を考え中で、未だ落ち着かない。
10帖ほどの一部屋に、ベッドとオーディオ装置と、本箱とその他もろもろが入ることになった。
5月の連休からの移動だから、片付けは、終わらず、仕事が引けてから思案し続けている。
本を読むソファとライトはセットしたが、スクリーンが取り付け終わらないと完成しない。
山の家に通っているときには、夜食を伊勢崎で食べ、急いで帰って山の家で映画を見ることが日課となっていた。
伊勢崎では、毎朝、3時、4時に目がさめるとベッドの中で新聞を読み、読みかけの本を読む。
ロレンスの旅日記「海とサルディーニャ」、吉本隆明の「親鸞」と「良寛」が、枕元にねころんでいる。
寝ながら読める読書器をしつらえ、それには白洲正子の「わたしの古寺巡礼」が置かれ、ロレンスと吉本隆明とが、いつでも読めるようになっている。その上、五味康祐の「西方の音」がベッドの横の机の上にある。気が向いた本がいつでも読めるということだ。

世の中には島好きが時々いて、ロレンスの「海とサルディーニャ」もそのことにふれて島好きだが、日本では若かりし頃に遊んだ紀州の小島の桜の木のもとに手紙を置いて生涯夢を記録した明恵も島好きで通っている。
ロレンスも明恵も僕も島好きで、僕は多くて年間7回時間が出来れば粟島に通うことになった。

吉本隆明は最後の親鸞でやさしく丁寧に記述して、かつての難解な文章から脱して、いやに読みやすい。吉本は亡くなる前に話し言葉で随筆風に書いている。
古寺巡礼は戦前、戦後の奈良近辺の記述である。それらが、ベッドの周辺に置かれている。

西洋の音には、五味康祐が、日本のオーディオ業界の草分けとして、輸入物のオーディオの説明があり、たのしく読める。

島好きの僕が日本海の孤島粟島に釣りに通って、早30年の歳月が過ぎている。
本土と高速船で1時間ちょっとだが、佐渡ガ島の北にあり、本土の新潟村上市の北の岩船港から、一日数本出船している。
粟島に船が付くのは、北東の内浦という港一か所に大型船が付き、南にある釜屋漁港は、漁船しか停泊できないこじんまりとした港だ。
初めは、内浦の大きな沖にある堤防で釣っていたが、歩いて行ける磯で真鯛が釣れると聞き、釜屋の民宿を探して泊まることになった。僕たちの釣りの狙いは真鯛一本に絞っていた。
最初の日に、磯靴を民宿の前のベンチで履いていると、可愛い女性が、アラそんな恰好で釣りですか?と声を掛けられ、そののちは、その彼女の民宿市左衛門で泊まることにした。美しいことに弱いのでこれも仕様がない。
そののち解ることになるが、内浦では、名字が定まらないが、釜屋では、松浦姓と渡辺姓がほとんどで、彼らが、北九州のまつら、松浦半島からの出自のようで、彼らを調べると源の綱の血筋で、大阪河内で、渡し守を一手に引き受けていた渡辺一族の末裔と知れる。孤島は血が混ざらず、純潔を保てるようで、男女関わらず美形が多いように観察できる。かつては、内浦と釜屋に一生行き来をしない人もいたようで、人種が異なるとも考えられる。語彙の違う言葉を使っているとも聞いた。本土新潟では、粟島の住人を、かっこよく美形が多いと風土記にかかれている。天皇家の血筋で、混血が少なく、そのため体形が残ったのだと考えられる。
そんな女将のいる民宿が、僕らの定宿になった。
フランス料理のシェフや大沢親分と同行し、市左衛門で知り合った東京に住む大谷さんは市左衛門の番頭さんと呼ばれるほど通い、昨年すい臓がんで先に逝ってしまった。大沢親分と言ってもやくざの親分ではなく、気性が親分ぽいのでそう呼んでいるだけである。大谷さんの手を握り、声をかけるとわかってもらえて、家内と最後の挨拶もできたと思う。
山の家を引き払い、伊勢崎に落ち着くまでは、いろいろなことを回顧して、旧習を懐かしんで、居心地の落ち着かなさを、我慢することにしようと思う。


2018年4月23日月曜日

石牟礼道子



ひとびとは、狩猟採集時代以後、農耕的気質に変化した。
粘着質、執着疾など、農耕を行うべき気質に変化してきたのだ。
彼らは均質化し、先頭が崖から落ちたとしても知らずについて行き、あげくに全体がおちる運命にある。

中井久夫の「分裂病と人類」には、
狩猟採集民は、分裂病親和気質でストレスに弱く、定住せず、しかし、予言は出来る。
農耕民には阻害されるが、その分裂病気質が、人々を助けるという。
その中に、高校生が全国模擬テストを受けた話がある。
彼は、模擬試験成績発表前に分裂病と診断され病院に収容されたが、模試では、満点の成績であったと言う。
教科書のすべてのページが、脳裏に現れて解答できたようだ。

狩猟採集民は、昨日歩いた石の上の鹿の足跡を読み、乾燥した大地の水分のある草木を探すことが出来る、生存に必要なための感覚と記憶だ。
僕たちには、狩猟採集民的気質が幾分といえども残っている。
それを信じなければ、僕たちの未来がないように思える。

狩猟採集民は、石牟礼道子が書き続けてきた前近代のコミュニティを保存することにたけていた。
隣人と気心が通じ合い、草木、石、宇宙とも通じ合う。
その石牟礼の代表作「苦界浄土」には、彼女の幼少期の感受された世界が描かれている。
池澤夏樹が、日本を代表する作品と言い、ノーベル賞は、村上春樹より、石牟礼だろうと言われる声のうちに、今年石牟礼は亡くなってしまった。
彼女は、狩猟採集気質を感受しながら、農耕的生活を余儀なくされた自己を、近代に生きることを許されない前近代的性格とみていた。
石牟礼は「自分は虚弱だなと思うんです。本当に耐えきれなくなるんですから。自分の感受性というものが非常にもろくて、過剰に感じてしまって、物事と自分との間の均衡が物理的にうまくとれなくなってしまう。ですから非常に先取りしていって、美的に完結させたいと毎日思って生きているんですが、それが完結しないから死ぬことで、ひょっとしたら、他人には分らないけれども、自分一人の中では完結するかなと思ったりするんです。自分の中だけで自分自身のみっともないところを、そういう形で浄化させる非常手段がやれればやりたいんですが」と書く。 

「椿の記」には幼女の彼女の記憶が生々しく描かれている。
水俣川に流れ込む細い川に見とれ、おおいかぶさる大樹の椿を眺めながら、木や山や石や水と自分が同じ存在だと感じる。その前近代性が、未来の生きるよすがとなるべきところに石牟礼道子の世界性がある。
誰一人同級の友人とは遊ばず、父母と、おばたち、神経どんと呼ばれる気の狂った祖母、火葬場の隣のとんとん村での死と生の混合した生活、淫ばいと呼ばれる天草から売られてくる女たち、それらが幼い彼女の記憶として紡ぎだされている。
生活民に寄り添っている暮らしがあり、故郷があり、畑だけではなく海と山まで控えている生活がある。
しかし、彼女は、猫が青草を噛んで、戻すときのように、食べることには憂鬱が伴うという。生活の中に現れる生きとし生きるものに感覚が向かってしまうのだ。
彼女の文章の口語には、天草弁、水俣弁、熊本弁また熊本市内でも幾分区域によってニュアンスが変わる味わい深い何百年も共有された文化が描かれる。それこそ、漢字が現れる前の、古い日本語の名残である。狩猟採集時代会話された言葉である。


熊本には、徳富蘇峰、徳富蘆花、谷川健一兄弟、渡辺京二と文学者が現れる。その渡辺京二は、ハルピンに生まれ、小学生で世界文学全集を読み終わり、手元にあるあらゆる文章を読み漁り、近代の文学者と言ってもいい立場から、谷川雁のサークル村に顔を出した石牟礼京子と知り合う。
その当時の石牟礼は、苦界浄土を書き始めている頃で、文章の誤字脱字の訂正と清書を渡辺がしたと本人が書いている。渡辺は、石牟礼は、英国が島国であることも知らず、世界の文学も、日本の文学も彼女は読んでいないだろうと言っている。粗末な小屋のひと隅で、百姓仕事の合間に水俣をたずね、見聞きした事柄を、彼女の言葉で書き記したものが、苦界浄土となずけられ仕上げられた.
渡辺京二は。元編集の仕事に関わり、石牟礼道子の文章の生成に編集者として助言のみ行ったという。以後、亡くなるまで、食事の世話をしたり。病院に連れていったり、石牟礼の身近で、生きぶきを感じていただろう。


2018年3月10日土曜日

資質

ひとは、生まれた時に、強度の生命力を持つものと、虚弱体質で生まれてくるもの、その間のものとに分かれているように思う。
その後の社会生活で、幾分変化することもあるが、生命力旺盛なものは、その強度のゆえに、壁が立ちふさがり、生きずらいこともあるが、何かをなすことが出来るものは、生まれつきのその資質に負う所が多いだろう。
虚弱体質は、生命力より、神経のこまやかさをもち、心臓と神経が打ち震えやすく、その故の生きずらさがある。
個性と言われるものも、その資質によってつくられるのだろう。
自分の性格がどちらに振れてできているか、考えさせられる。

2018年2月5日月曜日

インフルエンザ

風邪のせいなのか、風邪薬のせいなのか、高熱で意識が混濁して目の前に画像が現れたり、空想の世界と現実との区別がつかなくなった。
現場に出かけていると思っても、自分は布団にうずくまっているのだから、どこかに出かけて楽しく過ごしたつもりでも、布団から起きだしたわけではない。
経験として今では、振り帰ることが出来るが、意識はインフルの高熱によってあやふやになっていた。
39.8度の高熱は、現実と仮想とが混在して、数十年前に経験したことを思い出す。高熱は、がん細胞を死滅させるから、時には解熱させないで、そのままがいいときもあるときいている。
だから、ただ、そのままねむっていた。
孫から始まり、家族に伝播し、家内以外が、高熱で寝込んでしまった。

2018年1月16日火曜日

水魂


 

 

昨年から、

頭の中の脳髄が、

こんにゃくのような、

プリンのような、

ぐずぐず、ゆらゆらしています。

思えば、十数年前の一年の鬱症は、

こんな状態から始まったのでした。

その後で、鬱や躁は、頭の中のシナプスの疲労だと理解した。

 

これはいかん!と、

友人を誘って釣りの計画、

伊豆の南の岸壁に立てば、

鬱も躁も何もなかったように集中する。

波が悠久の時をたたえ、

竿先の、かすかな当たりを日がな待つ。

こんこんと2,3センチの竿先の曲がりに、

5メートルの竿を、勢いよく合わせ、

水中の魚の、大小を聴き合わせて、

竿をあげる。

この幻の魚に、どれだけ救われただろう。

 

毎日は、脳髄のプリンが、

豆腐に変わり、

コンニャクに変化する。

ひと時の、筋の通った脳髄に落ち着いたとしても、

すぐさま、ぐにゃぐにゃになる。

それが、海面の揺らぎと同調すると、

普遍の一形態になる。

海よ、波よ、

永遠の故郷・・・・・水魂たちよ。

2017年11月19日日曜日

ハグとなぐさめ

「ハグとなぐさめ」

 



無著と世親 運慶作 鎌倉時代 興福寺 

 

 

映画「マンチェスター、バイ、ザ、シー」には、ハグの場面が数十回出てくる。欧米の映画ではハグは普通に行われるが、この映画の回数は飛びぬけて多い。

主人公の兄のお葬式に慰問客が来たときと帰るときに、肩をたたきながら頬を近寄せてハグをする。また兄弟や友人たちが会うたびにハグをし頬にキスをする。親子でも夫婦でも、子供たちへもハグをする。

主人公の不始末によって、4人の子供たちが焼死してしまうこころが壊れた主人公の物語であるから、挨拶や、なぐさめや、抱擁によって、人とのつながりを描くハグは必要な行為だろう。ハグしようとしても出来なくて腕をさすったり、肩に手を当てたりするシーも何度かある。死ぬに死ねなくて、かたくなに心を閉ざした主人公を演じた俳優は、アカデミー主演男優賞をとる。

見ていて違和感がないのは、彼の演技が自然であることと、日本人の現代の生き方と、そう隔たっていない感じがするからだ。

我々は、主人公のようにかたくなになってしまった。にこやかで気持ちよく生きている人を見ることは少ない。

主人公は、泥酔して暖炉の薪から家を燃やし、4人の子供たちを死なせる。奥方は、狂ったように荒れ、彼をののしり、暴れ、挙句に離婚する。映画の冒頭、兄の子供に冗談を言って舟遊びをするシーンが写される。家に帰ると4人の子供たちを一人ずつ抱きかかえ、子煩悩、子供好きな主人公を丁寧に説明している。

主人公は、再婚した奥方にうまく顔合わせが出来ない。兄の葬式で二人はぎこちないハグをするが、主人公の目は泳いでいる。

しばらくして、主人公と元奥方が道で行きあう。

奥方が泣き崩れて、私は壊れてしまったの、あなたにひどいことを言った私を許して、あなたを愛してると彼の腕に手を寄せる。奥方は再生したが彼はいまだ生きていない。彼は、いやーとかそうではないとか、罪の意識が消えるわけではない。それでも、そういってもらえると嬉しいと彼女に告げる。奥方は、こんなに苦しそうでと何とかなぐさめたかったのだ。しかし、ハグをする雰囲気にはならない。

兄がなくなって、可愛がった16歳の男の子の面倒を見ることになる。人と接触したくない主人公だが、敬愛していた兄のことを考えると、少年を学校に送り迎えしたり、少年の若いセックス友達のもとに車で送って行ったりする。ここで、主人公の生きていない人生と、少年の気ままに生きている人生の対比が行われ、魅力的な少年に引っ張られて、主人公は徐々に生き始める。

ざっとこのようなストーリーのこれほど暗い映画がアカデミー賞の候補になった。この映画では、なぐさめなんてとんでもない、そんなもので自分は許されるはずがない、それでも、不自然なハグをされ、体に慰めのタッチを受け、少年との接触によって、なぐさめを得て、再生される。

我々には、なぐさめられたと感じないなぐさめが必要なのだろう。

 

かつて、書いたことがあるが、移民社会は、仲間の識別のために、握手から、ハグ、頬へのキスが行われる,母子の愛情表現を大人になっても続けていると信じる。

エレベーターで同乗者に挨拶をするアメリカ人と知らんふりをする日本人。アメリカ人は、敵か味方か判断しなければならないが、我々は、他の人を敵と想像することはない。

日本社会は、聖徳太子の時代では、縄文人が先に来て、台湾などの南から来た人々、中国揚子江近辺からの海洋民、韓国から、また、モンゴル方面からと移民社会であっただろう。そのため、太子は「和を持って」といさめたが、その後、千数百年を経、同一民族と勘違いするほど落ち着いてくると、言わぬが仏とか、くちは災いの元、減らず口をたたくなとか、4の5の言うなとか、話さなくても通じる社会を目指してきたように思える。

思いやりという言葉がそれを表している。日本人は、握手やハグの代わりに、思いやりでコミュニケーションを果たしてきた。悲しいことがあっても、抱いてなぐさめることはまれで、そばで、思いやりに満ちた表情をすることで相手を慰める。同一の価値観で生きてきたこれまでの社会では、それで十分だったかもしれない。
写真の右側の世親の表情は悲しさを感じた思いやりに満ちている。人々は仏像を見て手を合わせなぐさめられる。

日本では、刀狩がおこなわれ廃刀令が明治に施行されて、民衆は自分を守るための武器を持たなくなった。かたや、アメリカでは、これほどたびたび銃乱射事件が起きても、自己防衛のための銃は規制されない。これは、移民社会であることによって、他者と仲間の識別、他者からの自己防御を常に必要とする社会であるからだ。

日本でも今や状況が変化して、個人主義としてコミュティーに価値を置かない者が一般的になると、思いやりは言葉にしないでは解らないと言い募るようになっている。そのため孤独がいや増してきていると感じる。仏像に手を合わせてなぐさめを得ることはない。苦しみの対処法がない時代になっている。

そういう中で、彼らのハグを見ると羨ましくなることがある。悲しめば声をかけて抱いてあげ、苦しそうにしていれば静かにハグをする。我々は、1メートルほど他人が近づけば違和感があるが、彼らは、頬と頬を合わせ、キスまでする。子供のころの母親への接触と同じことを、大人になってもやっている。時には、知らない人が悲しんでいたらハグすることがある。仲間と感じたら、子供から大人になっても体を付けて抱き合うのだ。悲しんでいる人は、抱かれることで、なぐさめられ幾らか悲しみが薄れるのだろう。

友人が亡くなるとき、僕にはなぐさめられなかったという悔みが付いて回った。欧米人ならハグして相手と同化しただろう。死の床で手を握ることしかできなかった。

日本人は、気づかいをする。アメリカへ行った友人は、言うべきことを言えば、後は気づかいしないから楽だ、と言っていた。

論理的に生きている西洋人は、ハグをして子供時代のように他人と接触しなぐさめあう、情念を優先する日本人は、大人として気づかいで他人と付き合う。我々は、甘えをゆるされず大人になることを強制されるのだ。

伝統的な習慣がどうしてこうなったかは理解できないが、今は、気づかいで疲れ果てて、出来るだけ人と接触しない生き方になっているように思う。

 

鎌倉時代、世は荒れ、いたるところで諍いがあった。それまで仏教は、宮廷人、武士等上級者への宗教であったが、庶民の苦しみをなぐさめる宗教、救いをこの時代になって初めて考える人が現れ始めた。仏教が土着して根付居た時代といえるだろう。農業者、漁業者、徘徊者など市井の人々は、難行苦行によって救われることには無理がある。易業、たやすいつとめで救い、なぐさめが得られる宗教が必要だった。それが南無阿弥陀仏の親鸞であり南無妙法蓮華経の日蓮、武士たちの座禅の道元と鎌倉時代に、新しい仏教が始まった。

同じころ、運慶仏師は、無著と世親の仏像を彫っている。貼り付けているのでよく見ていただきたい。

無著は世の闇を凝視し、苦しみを秘めた表情をしている。世親はそのような人々に慰めの視線を送る。日本屈指のこの彫刻は、人の非情を見つめ、人の悲しみをやさしく解きほぐそうとする。興福寺では無著世親は兄弟として左右に置かれている。非情となぐさめ、現実認識と仏教によるなぐさめを一体づつ、運慶は渾身の作として作った。

当時子を死なせた人びとはあまたあっただろう。
江戸時代の良寛は子を亡くした親のこころに代わりて読めると、何篇もの歌を作った。
その一篇。「かしのみの唯一人子に捨てられてわが身ばかりとなりにしものを」

わが身ばかりとなったその現実認識を無著がなし、良寛が亡き子を追悼して歌ったように、罪の許しとなぐさめは世親があたる。宗教が人々に必要な時代があり、宗教になぐさめられる人びとがいた。

だが、この映画にはキリストは出てこない、この映画には宗教性が皆無だった。

現代は、宗教で救われたり癒されたりなぐさめられることがない。

 

鎌倉時代の親鸞さんがすごいところは、僕たちが持っていて変えることの出来ない、欲望とか、ねたみ、恨み、意地の悪さなどの煩悩を、自分の意志・自力で直そうとすることはない、と言ってしまう所だ。それらを克服しようと、座禅を組んだり難行苦行をするお坊さんはあまたいても、悟りと言う境地までたどり着くことは、親鸞は無理だときっぱり答えた。

人には意志力があり、直そうとすることは出来ても、備わってしまったそれらの煩悩のほうが強固で、意志力では太刀打ちできないと、9歳から28歳まで比叡山延暦寺での苦行の末つかまえた信念だろう。

しかし、欲望や、悪事に忠実であれ、と言っているわけではない。

親鸞は、浄土教の教えにある一人ひとりを救うには限りがある、仏になって全員を救わなければ菩薩にはならないと誓ったその阿弥陀様に向かって「南無阿弥陀仏」と唱えれば、阿弥陀様が救ってくれると、衆従に向かって布教した。

出来ない自力はあきらめ、阿弥陀様に頼る他力をすすめた。

現代人には、なにやら阿弥陀様も、経典もにわかに信じられない。実は、親鸞も信じているだけで、この世が地獄だから、裏切られても同じ地獄なら信じてもいいだろうと覚悟したと歎異抄で言っている。

親鸞の弟子である唯円が、親鸞の言葉を聞き書きした歎異抄に「阿弥陀さまのおはからいにおまかせして、自然のことわりにしたがって生きていますのならば、仏恩も知り、また師の恩も知るべきなり」と書かれている。

阿弥陀様のおはからいに任せておすがりする生き方は、悪事や煩悩を無化するところがある。悪事や煩悩と知りつつ行動しても南無阿弥陀仏と唱えると阿弥陀様が救ってくれる。

僕も、ある時一度だけ南無阿弥陀仏と、声に出さず口にしたことがある。不思議に口にしたことに驚き、そののちの、夜の静けさにふーむと相槌をうった。

そして、この文章の肝心なところは、自然のことわりに従って生きると書いているところである。仏教的に生きる、悪事も欲望も煩悩であると知ると同時に、自然の摂理に沿って生きると考えるなら、親鸞のいう宗教は、そんなに違和感なく身近なものと考えることが出来る。

人は、生来自分の自然に沿って生きている。
勝海舟の父親の小吉のように悪さを止められないエネルギー過多で生まれた人もいれば、とんまだとかうすのろと言われた良寛のようにのほほんとして生まれた人もいる。それぞれの自然があることに自分で知らなけなければならない。ちなみに僕は、軟弱気質で虚弱体質なので、悪人であることには違いないが、大した悪事は出来ない。
それでも親鸞は悪人の方が救われると言っている。善人は自力を捨てきれないが、悪人はそのまま他力になれる。

中井久夫先生が「無意識へと抑圧されたかっとうの解放は、神経症の治療と完全な成熟に達せしめる」と書いている。これは、例えば傷ついた場所にばんそうこうを張って直すようなものと考えていいと思う。生まれ持った煩悩ではなく、生まれ育てられる際に傷つき無意識に抑圧された心は、発見し納得しなければいつまでも繰り返すことになる。

親鸞の書いた「教行信証」には、生涯に南無弥陀仏と一回となえるだけでも良いと記されている。

 

親鸞の考えに親和性のある思想がある。エドモンド・バーグのとなえた保守主義という考え方だ。

人間は、道徳的にも認識的にも不完全にできている。社会も不完全な人間が作るものだから不完全にしかできない。歴史的に積み重ねられた伝統、慣習、常識などは、理性を超えて少しずつ変化しながら、成長したり衰退したりする。それを不完全な理性で、急きょ理想を作ることは出来ない。社会は一歩一歩変化するに任せるしかない。

親鸞の自力と他力思想とほとんど同じことを言っている。不完全なものはしようがない、そのままでいい。不完全な理性でなすことは自力ととらえやってはいけない。

 

要するに、橋本治氏が「人間はバカなのだから、自分のバカと共生して平和にいきるしかない」というのはその通りだと思う。ソクラテスが「わたしは知らないことを知っている」と言い、親鸞は「愛欲も煩悩も消し去ることは出来ない」と言う。

西洋人がロゴス(論理)を言葉にし、論理の苦手な日本人は情念を表す違いがある。

自分は不完全であることを認識し、徹底的に知ることが生きることで、南無阿弥陀仏と唱えられない我我は、ハグの習慣もなく、思いやりも通じにくくなっている。それでも、バカですいませんと気持ちよく生きたいと思う。そして、僕のことで言えば、一人歌を歌うことで自分をなぐさめている。センチメンタルこの上ないが、これが気持ちのいいものだ。

「ふしあわせというなのねこがいる。
いつもわたしのそばにぴったりよりそっている。

ふしあわせというなのねこがいる。
だからわたしはひとりぼっちじゃない。

このつぎはるがきたなら、むかえにくるといった。
あのひとのうそつき、もうはるなんてきやしない。

ふしあわせというなのねこがいる。
だからわたしは、ひとりぼっちじゃない。
                   寺山修二作

2017年10月27日金曜日

花のことば「9」




花のことば「9」


 

花ちゃんの堪忍袋の緒(かんにんぶくろのお)が切れたようだ。

11月に伊勢崎市内全校の小学4年生がコーラスの発表会を行うに当たって、音楽の授業で課題曲を練習している時のことだ。

音楽の先生は、今年、はなちゃんの小学校に転任してきた50代の女教師で、夏の奈良旅行で、はなちゃんが物まねをして、家族一同大笑いした熱意溢れる、また、音楽の意味をよく理解した先生だ。

発表会の練習を見せてもらったが、始まると、先生がワンフレーズ優しい声で歌うと生徒たちは同じようにやさしく歌い、元気な声になると子供たちも元気に歌い、長く伸ばして最後の音程をあげて伸ばすと、子供たちも同じように歌う。小さな声、小鳥のような声、いろいろな歌い方を子供たちに示すと、子供たちがそれに習って声を出す。
先生の声はちいさく、水のようにすき通っている。子供たちの声は、4年生だから低音は出ていないが、とても素直な声に、コスモスの花畑のように多種類な声というわけではないが、色違いの可憐な花で統一されているという印象を受ける。

授業が始まって数分で、この先生のような授業を子供のころ受けたかったと言う思いがする。(おじいちゃんは、初めから最後まで、この歌の歌詞にもある、あふれる涙が止まらない)

はなちゃんが、マネをするので良い先生だろうと思っていたが、こういう感じだとは想像しなかった。教え方や、先生の声を聞いて、はなちゃんは先生を崇拝しているのだと思った。いい先生に巡り合ったものだ。

おじいちゃんが、発表会に行ったら「花ちゃん、頑張れー」て言ってあげるねと言うと、「わたしは、指揮者の先生しか見ていないから、おじいちゃんのことは見ないけれど、帰ったらぼこぼこだからね」と言われた。

先生と練習中、歌詞を覚えていない子や、音程がいい加減な子や、声を出さない子がいて、先生が席を外したときに、はなちゃんは怒らないように気を付けながら

「勉強は、出来る子も出来ない子も、やらなければいけないけれど、芸術は、やらなくてもやっても関係ないと思っているのでしょうが、この発表会は、学校の名誉がかかっているのだから、もっとちゃんとやってよ!」と、堪忍袋の緒が切れて言ってしまったようだ。

音楽の先生は、子供たちを見る経験が豊富で、その上優しい人だろうから注意しない、はなちゃんが先生に成り代わって言ったのだろう。

え?とおじいちゃんはこの話を聞いて心配が先に出た。そんなに目立ってどうするんだろうと考えたのだ。
反抗する子がいて対決しないだろうか?
うじうじした子には恨まれないだろうか?
ええかっこしいだと思う子がいるのではないだろうか、と色々心配が浮かんでしまった。おじいちゃんは、思ったことはほとんど言葉にしないで、こうして、文章にして再考することが多い、そして、子供たちには、大人ぶった態度で接しないようにしているので、花ちゃんが、経験して自分でそこから学んでいけばいいと今では思っている。

エネルギーが過多な子は、生涯いろいろな壁に阻まれて苦労しなければいけないようになっている。のほほんと生まれると壁は少ないが、今度は、もっとはっきりしなさいとうるさく言われることになる。とかく生涯は生きにくい。

それでも、はなちゃんのように、真っすぐで、真面目に人生をとらえる子であれば、願わくば、負けないで続けていければいいなと、祈るよりありません。

 

音楽の先生は、この学年はよく声が出て、「花束」の曲はちょっと難しいし、4部合唱にしたので大変だけれど、うまく歌ってくれています、と、子供たちに拍手をと言われた。2,3じゅう人の父母たちは、惜しみなく拍手をした。

100人ほどの子供たちは、白いシャツに女の子は黒のスカート、男の子は黒のズボンの衣装を着て、大きく体をゆすって歌う子、小刻みに体を曲に合わせて歌う子、指揮者の先生を見ないで大口をあけて歌う子、口が開いているのか歌っていないように見える子、いやだなーともじもじしている子、それでも、左からhighソプラノ、ソプラノ、アルト、低音部と別れて、それぞれがパートに分かれて歌う。
先生が、高いふぁくださいと言うと、ピアノからポンと音が出る。それに合わせて、生徒たちが曲の途中から練習する。
体育館の空間に、すきとおった声が響いている。また、おじいちゃんは涙で裾をぬらしてしまう。

はなちゃんは、一心に指揮者の先生を見ながら、ゆるやかにからだをゆすりながら歌っている。

そういえば、ひと月ほど前に、青木さんと文哉とはなちゃんとおじいちゃんが車で移動中、どこへ行く途中だったんだろ?忘れてしまった。じゃあ歌の時間ね、と珍しくはなちゃんが言うので、じゃあ文哉からと催促すると、車の中では、皆で一人ずつ歌をうたう習慣になっているので、文哉がもじもじしていると、じゃあ私が歌うねと、はなちゃんは歌いたかったんだろう「花束」ね、と、気持ちを込めて歌い始めた。

今までの、一辺倒な歌い方でなく、ピアノシモやフォルテで歌うので、びっくりして聞いていると、難しい曲を最後まで歌ってくれた。青木さんと僕は、すごい!と手がちぎれんばかりに拍手しまくった。

それ以後、また歌ってと、お願いしても拒否されて歌ってくれない。

 

バレーの教室に送るときに、はなちゃんが興奮して、上に書いたこの日の始終を話してくれたので、帰って、婆ちゃんとママに話すと、二人とも、まあ!と開いた口がふさがらない。帰ってきたはなちゃんに、婆ちゃんがいきさつをたずねると、おじいちゃんのことをにらんで、「またはなしたの」と怒っている。
爺ちゃんは、子供の秘密をどうすればいいんだろう?あんまり話しすぎると、打ち明けてくれなくなりそうだ。困った、困った。花ちゃんの忘備録としても、大きくなって読んでもらいたいし、でも、そろそろ、早い思春期を迎えそうで、気を付けなければいけない。