2016年3月22日火曜日

歓待


急に訪れた人でも、どこの国の人々も歓待したようだ。イスラムの民は、そういう友好関係が今でも優れていると聞く。
今の日本では、僕にしても、チャイムを鳴らした人を客人として迎えることは出来ない。
これはよくなったのか、悪くなったのか。
そんな歓待について書いてみました。
 
 
 
 
「歓待またはホスピタリティー」

 

昨年二匹の愛犬が亡くなった。

8月、14歳だった白のラブラドールが骨肉腫で10日間苦しみながら逝った。

12月には、かつて交通事故で要介護犬であった1歳年上の銀之助が、夜中数時間の苦しみの中、息を引き取った。

ラブがみまかるとき、吠えることもできなかった体で銀を見て、最後に「うおん」と泣いた。

いざりながら近づいてきた銀には、その意味が解ったと思う。

 

そんな折、イグノーベル賞の発表があった。

日本の学者、新見正則が、心臓移植をしたラットに音楽を聞かせ、延命効果の変化の実験が賞の対象となった。

最も長く生存したラットは、ヴェルディ―の「椿姫」全編を繰り返し聞き、移植された心臓に適合しようとする細胞が活性化され、平均寿命が40日に延びたという。

無音と、流ちょうなアナウンサーの話を聞かせても効果がなく、

北欧の歌手エンヤと日本の演歌では8日間永らえ、

モーツアルトでは20日間生き続けた。

椿姫の物語は、高級娼婦が地方から出てきた青年貴族と恋におち、幸せな生活のあと、その父親に、あなたと息子が付き合っていると彼の妹が結婚できないので別れてほしいと懇願される。椿姫は泣きながら承知する。椿姫は彼が翻意するよう策略し決闘ごととなる。生き残った彼は、肺病を患う椿姫に会いに行くが、椿姫は死期にいたりこと切れる。

僕が聞いている椿姫は、コルトバスのヴィオレッタに、クライバーンの指揮のものだ。有名なマリア・カラスもあるが、僕はコルトバスの声に最も感情を揺さぶられる。彼女の声は、悲痛な場面では、泣いて歌っているように聞こえる。実験では、アンジェラ・ゲオルギューのヴィオレッタであった。

全編大声で歌い、歓喜にあふれ、悲痛に苦しみ、泣き崩れ、興奮し、落胆死に至る。

無音や話し言葉では効果がないが、音楽を聞かせると生き永らえるのだ。

演歌でも、モーツアルトでは過大な期待をするが、それよりオペラが最も生命の活性化を図る「音楽の力」があった。

他者の喜びを感じ、悲しみを感じ、涙を感じることで細胞の生命が目覚める。

細胞は、脳が感じた興奮によって活性したのだろう。

脳にはニューロンと言う鏡を見ているように相手と同じ感情になる働きの細胞がある。

武道で先生の稽古を見ていると、ニューロンの働きで先生と同じ動きをシュミレーションすると言う。ラットは、そのニューロンの働きで、ラット自身が喜び、哀しみ、興奮し、細胞を活性させたのだろう。

 

音楽は、その時々の情感を表現するには最適の芸術だ。

モーツアルトが、うきうきしていたり、悲しみに満ちている心情が表現されると、我々も同じ気持ちになる、そこに喜びがある。その音楽の様式が、美しさと兼ねあう。

美しさと作曲者と同化できる心情によって、至福の時間を味わえる。

美しい響きに涙し、やさしさにいたわられ、悲しさに同調して涙ぐむ。

僕たちは音楽を聴くことで、きもちを高揚させたり、哀しみを増幅させたり、自意識から離れて恍惚となることができる。

「大切なのは情感だ。聞いて涙が浮かぶようなことがおこらないと、コンサートなど実はなかったも同じ、唯一重要なことは感情なのだから。ギレリスやミケランジェリを聴いて私はよく泣いた。感情こそ、実際には涙こそが重要なのだ」と、ピアニストのアファナシェフが言う。

同じくピアニストのペレイラは「音楽は完全な世界を体現してくれる。それは、不協和音が解決を見せる世界である。旅の終わりで、満ち足りて終わる世界、主音で終結する。しかし、私たちの人生ではそのようにいかない。音楽の中では、完璧な世界を思い描くことができるが、調和から切り離され、満たされることがなく、不協和音が解決されない私たちには、音楽は自分の人生を育む精神的な豊かさをくれる。音楽が人をより良きものにするとは思わない。しかし、何かしら他では得ることのできない、内面的な充足をもたらす。そのようにして音楽は完璧な世界への道につながっている。」と言う。

そこで死が近いラットが、音楽によって生命が活性するとき、人間の感情が伝わると前提できるのだ。

ラットにも、喜びがあり、悲しみがあるだろう。

ラットの喜びと、ひとの喜びは哺乳類という母親の乳房に生命を依存することで同質なのだろう。

 

自然の中で、野生の音を録音しているバーニー・クラウスの「野生のオーケストラが聴こえる」と言う著書の中に、ビーバーの受難の話がある。

親子で生活していたビーバーが、上流のダムの放流によって営巣地がずたずたに破壊され流されてしまった。子供と妻をなくして傷ついた雄のビーバーが、泳ぎながら彼らを探して嘆いている。その声は悲しく、聴いていて胸が張り裂けそうになる。録音された声を何度聞こうとしても聴くことが出来ない。生き物があんなふうに泣いている声は二度と聴きたくないと思った、人間の作った音楽で、最も胸を引き裂くものであってもあのビーバーの鳴き声とは比べるべくもない、と、記している。

哺乳類は、少しの子供を産み大切に育てる。

乳をもらう行為は、相手とのコミュニケーションが不可欠だ。

子供が愛着障害を起こさないように、母親は子供と共に過ごし、子供は母親に引っ付き、まとわりつく、泣いていれば慰めてやり、困っていれば抱いてやる、おなかがすいては乳をもらう。幼児への愛情は欠かすことができない。さもなければ長じて障害を持つようになる。親子の結びつきは強靭だが、傷つきやすい。

母ザルは遺体となった子ザルをいつまでも抱きかかえている。

哺乳類の親子関係は、人類と同質であると考えていいのだろう。

哺乳させる行為自体に、そのもとがあるからと思える。

やわらかく温かな胸と乳房、やさしい言葉、滋味豊かな乳の味

そして、他者の声に耳を澄まし、自己を表現することで、あいてとのコミュニケーションを図った。その能力が、人間の感情を表現する音楽にも、通じたのだろう。

生命は、細胞レベルから個体、集団まで、コミュニケーションによって相手の動きを感じ、同調し、変化する。郡司ペギオ幸男によると「群れを成す動物に群れとしての意志はあるのか」、と言う研究があるが、群れの中の個体は側にいる他者を思い図って移動するが、瞬時に共鳴することができるので、集団のイワシや鳥の飛翔が意志として感じることができる。

群れと同じように、幹細胞がまわりの幹細胞と同調して、動きを感じながら変化していくように、生命現象は、個では成り立たず、コミュニケーションが図られなければ生き延びることはできない。そのコミュニケーションの中に、喜びも、怒りも、ビーバーのような悲しみも表現されるのである。

 

華厳宗の縁起の概念に、「この世における何物も他の物から独立して存在しない。あらゆるものはその現象的な存在の為に他のすべての物に依っている。すべてのものは互いに関連しあっている。すべてのものはお互いから由来している。・・・従ってこのような展望からすると宇宙は、多種多様で多面的に相互に関連しあった存在論的な出来事が密接に構造づけられた連鎖であるので、末梢部分での極小の変化ですら他のすべての部分に影響せざるを得ないのである。」華厳の縁起の真髄は、「全てのものの力動的、同時的で相互依存的な出現と存在である」と井筒俊彦は言う。

千数百年前に、華厳宗では全てのものの働きを縁起としてとらえていた。

 

STAP細胞というストレスを与えられた細胞が、身の危険を感じて多能性細胞に変化することが分かった実験では、ストレスを加えられた細胞はまわりの細胞とコミュニケーションする。それぞれ華厳宗の述べるように同時的で相互依存的に変化するのだろう。ip細胞は、細胞核の中にまで手を入れて人工的に作り出すため、同時的・相互依存的なコミュニケーションする力が弱く、他者の気持ちを図らず、我が道を行くとして、ガン化される心配がある。新しい発見の多能性細胞は、細胞の自己防御および自立性によって形成された細胞であることが、ガン化を防ぐのだろう。

ストレスによって細胞が変化して、どの場所でも生存できるように変化するということは、人がストレスによって成長し、進化するという普遍的真実と整合する。

そして、音楽の実験で理解された、他者とのコミュニケーションの高まりでも、細胞は活性する。心が喜んでいれば、細胞は免疫に守られるのだ。これも、人口に膾炙されたことである。

 

音楽はその上歓待の性格がある。

人類学的に定住者は、訪れてきた「まれ人」を歓待する伝統がある。

ホスピタリティーと言う。

そういえば、父も歓待された話をしたことがある。

終戦後、両親は焼け野原の神戸から母親の実家である徳島の喜来町に引越しした。

母の実家では、祖父が番傘を作り販売していた。

父は、油紙を番傘の竹ひごに張り、墨で旅館の名前などを書いて、出来上がった番傘をスクーターに積み営業と配達に回っていた。

僕が4,5歳の頃、父のスクーターの前に立って、風に当たりながら徳島市や、鳴門や塩田の前を配達に通ったことを思い出す。

とても大きな流下式塩田の木製の棚が稼働していた頃だ。

冬でも、飛行機乗りの顎まで暖かい帽子を被って、スクーターの前で風を切っていた。

父から借りたその帽子は暖かく頭から首もつつみ込み、誰も持っていなかった。

スクーターでは数本の傘しか乗せられず、大した額にはならなかっただろうが、時代はそれでもよかったのだろう。

しかし、こうもり傘に制覇され一家はちりじりに別れることになる。

父に聴いた話では、吉野川上流の山間の急斜面に立った平家落人部落らしき民家に行商に行くと、

よく来てくれたと、その家の主人は父を上がらせ、質素な夕食を馳走になり、眠る時には布団が三枚敷かれ「何もないので娘2人と一緒に」と同衾したと言う。

その夜は、語りあかし、笑いが絶えなかったと父は話した。

その後何があったか話さなかったが、その家から娘さんを差し出され、精一杯の歓待をされたのだ。

父が高等小学校の頃、美術の教師であった校長先生は、下宿をさせて絵を習わせたいと、祖父に掛け合った。(絵の素養があったのだろう、退職した後、水彩画で風景をよく書いていた)祖父は、新開地の新劇の座長であったから、看板職に通じていて、絵描きなど看板描きになるのが落ちだと取り合わなかった。

その後、祖父の計らいで川崎重工の専属学校に行き、県代表のマラソンの選手となった写真が残っている。

同期には重役になった者が多数いたそうだから、将来は希望に満ちていただろう。

だが、戦争がはじまった。

父は戦地には行かず、宮中を守る近衛兵として東京に赴任した。

千葉の修練場で「近藤、前に出て吟じろ!」と連隊の前で詩吟を披露したという。

宴席で、高い声でベン静粛祝と吟じていたが、僕たちは又だとあきれていたと思う。

宮中の見回りのおり、現天皇に石を投げられたり、女官に自分だけ呼び止められ食事させてもらったと回顧していた。終戦時には、連隊長から日本刀を授けられ、喜来町の土中に油紙に包んで埋め置いたそうだが、ついに掘り起こさなかったようだ。

町の警察の道場で、剣道の稽古をしていたのだから、気にはなっていただろう。

終戦後、神戸の新開地は焼け野原で、土地の境界も解らず、神戸で住まい続け、川崎重工の職場に帰れば違った人生があっただろうが、母の実家である徳島県に移ったのだった。

小学2年生の時、貞光の駅から神戸に引っ越しするとき、画用紙と絵具を選別に頂いた僕の恩師の先生から、喜来では吉野川沿いの竹林を伐採し和傘を作る人が多くいたと教えていただいた。

喜来町は、貞光駅から河原を歩いて数十分の吉野川の渡し船で通じていた。

橋は遠方になるので、ほとんどの人は小さな渡し船を利用した。

先生が女学生のころ、吉野川の渡しに背中に和傘を背負った人がよくいたという。

スクーターは、都会の人だから乗れたのです、とも聞いた。

コーモリ傘が普及してきて、5人の子供をかかえ、和傘の販売では暮らしがなり立たず、僕たち一家は昭和33年吉野川を後にした。

中学の兄は大阪に奉公に出され、長女と次女は大阪の父の腹違いの妹に養女に出し、妹は両親と神戸に行き、僕は父の再婚した大阪の実母のもとに行った。僕が小学2年生の時である。

父は、実母とは「なさぬ仲」とよく言い、実母が隠れて見に来たと逢瀬を語り、家族だけは仲良く一緒に生活しなければと言っていたが、意に反して、子供たちは別れて暮らすことになった。

大阪に行った僕は、始終卒倒して、半年を過ぎたら、面倒を見ることができないと神戸の両親のところへ返された。心臓弁膜症と言う病名が付いたのだった。

肉体は悲鳴をあげていたが、捨てられたという僕の苦しみを隠蔽する回避生活がはじまった。

父は、生活の維持がすべてだっただろう。

病弱な母親と、返された5人の子供を抱え、食うこと、学校へやることで精一杯だっただろう。

親にとって、子は無償の愛として歓待されうるすべてだったと思いたいが、あに図らず、僕は父に反抗し続けた。

6歳の頃、鳴門から貞光まで帰る無人の始発列車で、僕を置き去りにして姿を隠した父は、可愛いいたずら心で、僕をかまったのだろうが、大声で「おとーちゃん!」と泣き叫んだまま、今に至っているような気がする。 

中学・高校と反抗を続け、何を決めるのも自分一人で決めた。

期待されていた大学受験もせず、高校を卒業したのちの夜、布団に寝ている父の枕もとで、明日東京に行きますと告げ、許しをお願いしますと僕は言った。

何時間か経ったか、父はたまらず、勝手にしろと言った。

僕は、許しを得たと理解して、翌日、リュックに荷物を詰めて東京行の電車に乗った。

父は悔しかっただろうが、僕は、明るい未来を夢見て、両親のことなど考える余裕がなかった。母は、険悪な二人の仲に立って、僕が出ていくのは仕方がないと了解していたのではないだろうか。

成瀬巳喜男の映画に、「桃中軒雲ヱ門」がある。

浪曲師の雲エ門は、子供を置いて諸国を巡業の旅に出ていた。

名声高まり東京に向かう途中子供と面会する。

親に甘える子供に向かって、「お父さんを完璧と見るんじゃあない!お父さんは、傷だらけだ。」と子供に諭す。

たまらず涙が出た。

 

後日、仕送りもなくよく生活したと、父は言ったが、東京での生活は貧乏ではあったが貧困ではなかった。毎日は、波乱に満ち、人生の山場だと感じ続けていた。

当時、生きることは死ぬための切符を手に入れるためにあると思いこんでいた。

本を読み、音楽に浸り、北海道、九州と無銭旅行をした。

その旅の漂泊感は、昨年「漂泊と自由」を書いて自分でも感じたが、将来にわたって忘れることがないのだろう。

漂泊から帰ると、2,3日は畳が嬉しいが、また、すぐに旅に出たくなるほどであった。

 

世阿弥の「鉢木」は、困窮した老武士のところに、雪の中、一夜の宿を借りに来た僧侶に、老武士が大切に育てていた鉢の木を暖を取るため焚き木として燃やした謡曲だ。僧侶の寒々とした姿に何とか暖かく歓待してもてなしたかったのだ。

先日、我が家に女学生が3人泊まりに来た。見ず知らずの老人が住むところに、知り合いのおじさんに引きつられてきたとはいえ、よく来たものだ。当然、鯛鍋をつくり、デザートのぜんざいを用意し歓待した。でも、これには老人の秘した喜びが現れたものだから、無償とはちとはずかしい。生殖年代盛りの女性と、同じ屋根の下で過ごすのだから、うきうきするものだ。人生は好色に満ちている。

しかし、歓待は無償の贈与という普遍的な行為である。

世界中、放浪する宗教者や遠来の客人を、神の化身とみなして歓待する風習があった。

定住者は、自分たちの生命の維持と、訪れ人から聞く世界の知識を深めること、訪れ人そのものの存在によって、創造され生まれ変われることができた。

細胞が活性化されるのだ。

四国では、お遍路や巡礼者、放浪者を、地元の人はお接待と言って泊まらせ食事を与えた。我が家は、お遍路道からずれていたが、一度だけお接待をしたことを思い出す。

その日、母は、夕食にカレーを出した。何故か理由は思い出さないが、幼き僕は、巡礼者の食べたカレーのお皿を舐めて、母にこっぴどく叱られた記憶がある。なぜ舐めたのだろう?

知識とは、考え方が180度変化することを言う。知らずに思い込んでいた考えを暴き、思い致すことである。

その為、「まれびと」を歓待する風習がうまれた。

音楽が、ラットの心臓移植された細胞を目覚めさせたように、歓待は、歓待する定住者を創造的によみがえらせるのだ。

僕たちは、毎日何気なく音楽を聴いているが、音楽によって、歓待され、細胞が活性し、寿命まで延ばされている。

お客がくると、お茶を出す行為は、歓待の名残だ。

 

子供は歩くころになると、聞こえてくるリズムに合わせて体をゆるがせる。

気持ちが良いのだ。子供は音楽を教えなくても感じ入ることができる。

梁塵秘抄に

「遊びをせんとや生まれけむ。

戯れせんとや生まれけん。

遊ぶ子供の声聞けば。

我が身さへこそゆるがれる」とある。

子供は、乳児の2歳までに、充分な愛情を注がれないと障害となる。

2,3日母親が入院して母乳をやらないだけで、子供は、不安定になり、母に対する依存が変化し、強い依存症になったり、無感動になったりすることがある。

ママがいない!ママがいない!と不在の期間、思い続ける。

1日中、ママがいない!ママがいない、と思い続けることを想像すると、気がおかしくなりそうだ。

常に側にいて、応答できることが母親の務めである。

甘えさせてもらえなかった子供が、自分への注意を向けるため、我がままになったり、あまえられない寂しさに感覚を鈍らせて、あげく急な爆発を起こすようになる。

愛着に障害を起こすと、回避型として無感動になったり、不安型として神経質になったり、統制型として家族を自分の思うとおりにコントロールするようになる。統制型が最も悪く、家族兄弟を、自分の言動で、思うように行動させる。家族はそれぞれ依存症になるか、離反するか方法がない。

依存症となった子供は、不安型となって、よい子を演じ続けるが、自己確立できず、なにごとも、母親が決定することに従わなければならないので、時にパニックに陥ってその解消を図ろうとする。

グレートマザーは、家族への愛がもっともすぐれていると確信しているので、自分の決定に従わない家族によって自己のよるべき立場が揺らぐ。

愛されなかった子供であったグレートマザーは、将来にわたって、それを獲得しようと悪戦苦闘し、愛されることを相手をコントロールすることとはき違えて行動する。

可愛がられたいとき、可愛がられないと、生命パワーの強い子供は、問題行動を引き起こすことで、親の目を引くようになる。

注意されようと、怒られようと、その時自分を見てくれるから、自分の言動によって親の愛情を感じることができる。

長じても、自分の言動によって動く家族が、愛情のあかしとなる。

面倒は細かく見るが、可愛がることはできない。可愛がると言うことが、経験にないので解らないのだ。

子供の問題にはよく気が付くが、相手を尊重して思いやりを持って見続けることができない。その子供は、思いやりと言う行動の意味を理解することができない。これも、思いやられた経験がない子供時代を過ごしたからであろう。

自分の思うようならない家族が現れると、雄叫びを上げるが、消沈して、身体に影響が現れ、頭痛がしたり、吐き気が出たり、ストレス病を抱え込んでしまう。

かくいう僕は、大阪の祖母から逃げ、父から逃げ、家族からも逃げている回避が身についている。

幼児の環境で与えられた気質が、生涯忘れ去られることがないのだ。

夫婦の50%が、愛着障害にかかっている夫・妻を持つと言われる。

 

子育ては、子供を傷物として育てるしかない。

長じて、神経症になっても、両親のせいにはできない。自分で解決するほかない。

宮崎駿も自著で愛着障害の為に作家となったと言うが、何か、精魂込めたなすべきものを探し、見つけることが解決なのだろう。

幸せな人には、芸術行為は無縁かもしれない。不幸な者たちが、その不幸を解消・昇華するため芸術行為が生まれることが度々ある。

吉本隆明も、芸術は、自己表現につきる、自己を慰撫するために始めると言い、母親は3歳までの子供を大切に育てないといけないと、自分に手繰り寄せて書いている。

現代は、異常な両親に育てられた、異常な子供の物語にあふれ、親に異常だと言っても、親はその親に異常に育てられたのだから、自分で解決する方法しかない。

その存在を表現することで、自己も昇華され、他者に歓待の材料として提供できる。

鉢の木を燃した老武士のように、表現をあなたに差し上げるということである。

私たちは、その表現によって、生命を活性させ歓待されている喜びを感じる。

 

古今和歌集の序文に紀貫之が歌について記している。

「やまとうたは、人の心を種として、

 万の言の葉とぞなれりける

世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、

心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり

花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、

生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける

力をも入れずして天地を動かし、

目に見えぬ鬼神をもあわれと思わせ、

男女のなかをもやはらげ、

猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」

訳は 

               「日本の歌は、心を種として、様々な言葉となった。

               人の心に起こること、見るもの聞くものを感じて言葉に表した。

花を見て鳴く鶯、水の中でなくカエルの声、

生きとし生けるもののあらゆる命が、歌を歌う。

歌を歌わないものはどこにもない。

歌は、力を入れることなしに天地万物を動かし、

見えない霊的な鬼神まであわれと思わせる。

歌は、男女の仲を和らげ、

荒々しい武士の心でさえ慰められる、

それこそが、歌である。」

 

人類は言葉ができる以前は、歌っていた。

和歌はその伝統を引き継いだようだ。

森羅万象が歌を歌っていたから、人類は歌うことができたのだ。

小鳥がピーピー鳴くように、人は、話し言葉以前は、声の抑揚で表現し、通じ合っていただろう。

ピタゴラスが言うように、宇宙は歌や音楽でできている。

僕たちは、宇宙全体が鳴り響く交響曲のような世界の中に存在している。

先の「野生のオーケストラが聴こえる」の中に、多くの動物たちは、人が見過ごしがちなほとんど「潜在的な方法で」意思の疎通を図っているという事実があると言う。

マウンテンゴリラやオランウータン、大山猫、キツネザル、様々な鳥類、多種多様な昆虫、象、爬虫類、両生類が、一度に歌ってコーラスを形成する。

のどだけでなく、翼や足、くちばしや胸部が鳴らす歌は、人類の音楽についての基礎となった。

西洋に演奏旅行に行ったインドネシアのガムラン奏者は、演奏の後、西洋音楽のシンフォニーで歓待された。彼らに評価を仰ぐと、シンフォニーの演奏にではなく、演奏前の、それぞれが音合わせしているその音楽に、興奮し興味を示した。フルートがピョーと鳴り、バイオリンが一人ひとり異なる響きをだし、トランペットやトロンボーンがボーボー呻いている。

調音するときの音のざわめきを、野生の音と思ったのだろう。

ローランドゴリラは複雑なリズムで胸を叩く。

マルミミゾウは低く大きく鳴き、かきむしるように唸り、遠くまで鳴り響く人の体に感じる声を出す。

サイチョウが天蓋を渡り、しわがれた声と羽ばたく翼のエッジの音は、空中を浮遊する獲物を見つけて、高い位置で弧を描きながら飛ぶときには微かに音の高さが変わる。

オオツノコガネは低い持続音や振動音を立てる。

アカコロブスやオオハナジログエノンは突然強いアクセントをつけて仲間に向けて警告の叫び声を発する。

シュモクドリやトキやオウムの叫び声や鳴き声がまわりの空気を切り裂く。

そんな音響の綾に、たくさんの種類の昆虫やカエルがつねに持続音や振動音による対旋律を附け加えている。

こうしたバーニー・クラウスが発見した中央アフリカの森の音は、「みごとなまでの音の融合が多様な種を包み込んで眩いばかりで幸福を感じる」と作者は記している。

 

考えるに、日本人の死生観は、西行や漂泊者の生き方に行きつくところがある。

樋口一葉や石牟礼道子が、野垂れ死にしたい願望があるというとき、西行や空海や勧進聖、また、お遍路や巡礼者の彼らを忍ぶのだろう。

野垂れ死にした体は、腐敗菌に食べられ、細菌に分解され、虫にむしばまれそのうち野犬やイノシシが食し、最後には土に帰り、植物の栄養となり、再び生命が誕生する。それが本望なのだ。

(焼却場は、早く骨にするため高温で焼く、骨は土に帰る骨でなくセラミック状態だ。それでは、いつまでも土に帰れない。)

五穀を断ち、木食した後、食べるものもなく、野の中で行き倒れた者は、ただ、野生の声に見守られながら静かに息を引き取る。

日本では、中央アフリカのようにはいかなくても、カエルが鳴き、虫が羽を振るわせ、鳥がさえずる。雲は流れ、青空がまばゆい。時には、遠くで鹿が鳴くかもしれない。

草花が、ほほに揺れ、足元ではみみずがゆっくりと前進している。

そして、いままで何度も眠ってきた最後の眠りが訪れる。

世界は歌に包まれている。世界は美しい。

生を味わった後の、死の理想なのだろう。

可能か不可能かそれはわからないが、彼らのようでありたいと思う。

西に向かって行脚を始めるのだ。故郷である神戸があり、四国がある。

西行が願った浄土が西にはある。

 

ふるさとは遠きにありて思うもの、と詩人は歌った。

そして哀しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもい涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこのかへらばや

 

日本では土葬を認めているところは少なく、土に還ることもできない。

 

野生で生活していた石器人類は、それら野生の生物と同一の生命体であったが、歌が言葉となって彼らとの分離が始まった。

今西錦司のすみわけ理論では、人類は狩猟採集生活において、自然の一部であったが、定住生活を初めて自然から離れてしまったと言う。

最近の研究では

「農耕と牧畜生活は、狩猟採集生活より、食生活のバラエティーが減り、その為栄養失調を引き起こした結果、寿命が縮まった」と言う。

「その上狩猟生活に比べて、激しい労働を必要とし、備蓄した穀物や肉を外部の敵に奪われないように城壁と軍隊が必要となり、このコストが高すぎて、一人あたりの栄養摂取量も減った」という。

「人口密度が高くなると、乳幼児死亡率が上昇し、周期的に起こる飢饉には一層致命的となった。おまけに、食料の増産は、地球環境の破壊へと進んでいる。飢えを防ぐ方法が,飢えをよび込むという悪循環に陥り、うまそうな食べ物は、肥満を引き起こし、食欲をそそらない食べ物だけが、体に良い。食べれば食べるだけ健康を害し、食べなければ食べないだけ健康になる」と言う。

嘘のような話が現状だろう。

狩りや,採集の労働時間は彼らは労働とは思っていなかっただろう。

狩りは血沸き肉躍る経験なのだから、数時間で終わり、あとは木陰で昼寝をしようと自由時間だ。

 

柄谷行人は、遊動論を表し、「柳田國男が、稲作農耕民の常民に偏ったと言われる評価は間違っている。柳田國男は狩猟採集民、山人が終生念頭にあった」と述べている。山人の神は、普遍的宗教にまで高められるとのべ、人々の生活の相互扶助的生活を理想としている。

そういえば、柳田は、農民救済の為に農水省に努めたのだった。人々の、理想的共同体が、念頭にあっての生涯だったのだろう。

近代になって、植民地制度、奴隷制度、男女同権など前近代の遺風を乗り越えて、近代人類は、基本的人権を考えだし、民主主義を編み出した。これが最高ではないと考えるが、平等と言う概念もある。

我々人類はイグノーベル賞の実験結果から、基本的哺乳類権を想像したいし、基本的生命権、地球に住み続けるなら、基本的地球圏、基本的宇宙権まで構想に入れなければならないのだろう。

 

(我々は、音楽から生気を得、絵画から美と驚愕を感じ、文学から知性を獲得する。すべてこれらの表現は、他者への歓待である。

かつて、物語が民衆を慰めたように)

 

アルと散歩の途中日陰で腰をかけて涼んでいると、時々行きかう婦人が、

「まー、恋人たちのようね」と言って通り過ぎた。

階段の上でフェンスにもたれて座り、その横で僕の手の下に真っ白なアルの頭があり、横になって座っている。涼しい日陰の風が通り過ぎる。

渡辺京二の文に、「オーデンの友人に同性愛者がいて、老人になっても夜な夜な美青年を漁らずにはいられない。そのことが我ながら浅ましく苦しい、ところが犬を飼ったら、美少年あさりが収まった。詩人の伊藤比呂美は、メス犬は格好の良い男に媚を売る。メス犬と男の間には異種婚姻譚ならぬ異種愛が成り立つ」と書いている。

確かにアルは、ラブラドールのメスである。

寝ている以外は、僕を注視していた。

何を思って見ていたのか。僕は、通りすがりに頭を撫ぜるばかりだった。

音楽を聴いていても、近づいてきては顔を見ている。

本を読んでいても、映画を見ていても僕の顔を見ながら隣に座りこむ。

遊ばなくなって年月が経つと、アルはどうやら遊んでくれないと諦めたようだが、アルは遊んでもらいたいと近寄ってきたのだろう。

ボールを投げてアール行くぞーと声をかけてもらいたかったのか。

今に思えば、一人椅子に掛けている僕に願っていたのだろう。

生後数か月の頃から僕のベッドの布団にもぐりこみ、またぐらに顔を載せて眠っていた。

アルの寝返りで、アルの手が僕の目に当たり病院騒ぎとなってからベッドの下で眠らせることになった。それから小さなアルはベットに前足をかけて僕の顔を見ている。

ラットの感受性を考えれば、一緒に寝たいと哀訴していたのだろうが、僕は無視した。

本を読んでいるとき、所用で椅子から立ち上がった瞬間、すかさずアルが飛び上がり横取りしてその椅子に座った。

あなたは、私に何もしてくれないと言ったのかもしれない。

 

症状が出て入院し、痛みが強くなり呼吸の声を荒げるようになってから、僕を見ることがなかった。他の存在より、自分の痛さに、耐えて、胸を震わせていた。

目を合わせたくて何度も呼びかけたが、時にはこちらを見ても視線はうつろだ。

評判の名医に見せているから、こんなに早いと思っていなかったのだ。

そんな時、いざり寄ってきた銀に呼びかけた。「うわん」さようならと。

退院して3日後、早朝、家内が添い寝していた横で、息を引き取った。

銀が近づいて口の周りの匂いを嗅いだが、もう息はしていない。

亡くなってから思うものだ、もっと楽しませてやればよかったと。

ぼくは、歓待、アルの充分な歓待をうけたのだから。

 

白い光の向こうで、

あるがひとこえとなって、

こっちだよ、こっちだよと呼んでくれる。

白い犬の形をして、

ウヲンと吠えているようだが、

聞こえてくるのは、

こわくないよ、

こっちだよ、

ぼーるあそびしようねと、

ことばになっている。

両目を大きく開けて、

わたくしをいつものように見つめている

 

まわりには、父もいる、

周子もいる、大勢の人が寄合って、

わたくしを、見つめている、

みんなが、静かに「おいで」と言っているようだ。

 

わたくしは、声を出さずに進んでいこう、

澄み渡った空気を通り過ごして、

しずかな、うつくしい、みんなのもとへ、

すいこまれていこう。

 

ありがとう、と、あるに声をかける。

冷たくなったとき

くちびるが動き、

まぶたがあき

胸が鼓動する

これは、幻影だろうか、

動かない君はいなかった

とびはねる、海に飛び込む、食べ物をねだる

横たわる君の頬を撫ぜ、胸をさする

だが、今は冷たい。

 

わたくしは、君に

ありがとう、と何度も言おう。

ありがとう

ありがとう

わたくしという存在に、君の影がよりそう

ありがとう

ある

         2014 。1.24 近藤蔵人

                 

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