2017年5月1日月曜日

うつくしいときれい



[うつくしい]という言葉と、[きれい]という言葉は、案外区別されていないと思う。[うつくしい]は文章で見ることがあっても、使うことはまれだ。
ほとんどの感嘆した場面では、[きれい]と発せられる。きれいねー、きれいだね、と。
花を見ても、海の景色を見ても、やはり、きれいだねと言う。
うつくしいという言葉は日本の古語で、きれいは、室町時代,布の平織りから綾織りになったとき、その輝きを綺麗と言ったことが始まりだという。古語のうつくしいは、いとしいとか、愛らしい、見事だとかの意味がある。
これを区分けすると、自然なものを、[うつくしい]と言い、人工的な物を[綺麗]と言うと考えられる。現在では、自然なものも美しいと言わないで綺麗と言う。ちなみに、美という漢字は、中国由来で、ヒツジが大きく格好がいいときの言葉とされている。

この状況は、あまり良いこととは考えられない。
初日の出を見て、うつくしいと感じた人は、涙することがあるが、きれいねと言ったひとは、それほど感激しない。
これは、きれいは、その後きれいにしなさい!と言う、語彙が含まれてしまったからだと思う。だから、その物にのめりこむことができない。
日本人は、自然が好きで、花鳥風月と言ったが、今では、きれいと感じることで、自然に親しみを感じなくなってきたのではないだろうか。自然は、不潔で制御しにくいからだろう。

建築を考えると、建築材はすべて人工的にいろいろな采配をして、しなければいけないことを、従順に守って、やっと、製品に完成させる。だから、すべて人工物で出来ている。
うつくしい自然がはいってくる余地がない。
これを自然に近づけるける方法を考えたかった。
そこで、人工の建築の反対とは、自然に帰って行く廃墟がそうではないかと思った。(個人的な考えですが。)
建築物を廃墟に近づけると言うことは、時間を含んだ古材の梁や柱やアンティークな家具などがその建築にふくまれると、時間の概念のない建築物に、時間を経た素材が含まれることで自然への道が示される。
新築した建物も、10年もすれば、いくらか落ち着く感じがするが、それも、廃墟に向かっている時間を、建築物が含むからそう感じるのではないかと思う。
実際に、古民家を訪ねると、ここで昼寝がしたいなと感じる。それは、きれいにしなさいと言う語彙が、時間がたてばたつほど、薄れていくからだと感じる。
どんなに自然の物、左官とか木や紙を使って新築しても、きれいが先だって、お休みくださいと言う印象は受けない。
建築が住まい手に、きれいにしなさい!と、無言で語りかけている。それでは落ち着くことなどできない。

僕が作りたい建築は、その空間に無性に帰りたくなり、落ち着き、なごめる場所だ。言葉に出さなくとも、うつくしいと思える空間、それでも、きれいにしなくてはならない場所が必要ではあるから、その兼ね合いと言うことに落ち着く。

子育ての最中、親は、子供に、きれいにしなさい、ちゃんとしなさい、しっかりしなさい、早くしなさいと、目の上から声をかける。言いたいことがあるなら言いなさいと言っても、子供は、素直に話さない。長じて、生き方も社会も綺麗が優先されて、人生を送ることとなった。そのままでいいんだよ、子供は、子供のままでいいんだよと言う優しさは育ちようがなかった。理性というのは、容認するより、しちゃあいけないということに重きを置く。そういう癖があると思う。宗教も、社会もしてはいけないことを並べている。

子供にうつくしいとは言わなくても可愛いと言う。
だが、子供にきれいという表現を使うことはない。それは、子供がいまだ自然物であるからだ。
うつくしいは、先に書いた「いとしい」「愛らしい」と言う意味がある。「うつくしい」が使われる社会であったなら、人々は、もっと寛容で、あわただしくはなく、感覚に敏感で、「きれい」と共存したのではないかと思われる。
綺麗は、感覚が感じるものではなく、意識、頭脳がはじき出す。よって、きれい、きたない、0か1の結論を取る。いわゆる、コンピューターのように、コンピューターが頭脳の外部化と言われる所以だ。
うつくしいは、うつくしくしなさいとは言わない。不自然である。
うつくしいは、きれいでないものでも、うつくしいと感じることがある。いとしく、愛らしい赤ん坊は、うんちをし、おしっこをするが、それでも、いとおしく、愛らしい。そのうえ、赤ん坊を、可愛いと言っても、きれいと言う人はいない。
備前焼の壺は、うつくしいと感じても、きれいと言う人は少ない。

きれいが優位になると0か1、オンかオフで判断し、0と1の間にある無限が含まれる「うつくしい」を許せないと判断するのだろう。
良い加減とか、なるようになるとか、中を取ってとか、そんなもんだとかでは済ませられない。
社会は、「きれい」が原理で動くようになって、自分たちが、のんびり、のほほんと過ごす良さを、なくしてしまったのだ。