2016年4月21日木曜日

永遠のドラキュラ

国立科学博物館に電話をしてみました。
3万年前、最初に日本にわたってきた人たちは、台湾から草舟で航海したそうです。
博物館が、草舟を作って航海の実験をすると聞いたからです。
新石器時代には、石斧で丸太舟や木の船の製作ができるようになります。それまでは、世界中で草舟で海を渡ったそうです。
その草舟を新潟粟島では、カヤで作り、七夕丸として、人が乗れるほどの大きさで毎年作っては、七夕の日に願い事を書いて海に流しています。
粟島には石器時代の遺跡があります。
3万年から8000年前の石斧ができる間だけ、日本では草舟が作られたでしょう。
今現在、粟島以外で伝統的に草舟を作っているところがあるかどうかはわかりませんが、
その、起源へのノスタルジアが、粟島では七夕丸として制作していると想像すると、国立博物館が、そのことを知っているか聞いてみたかったのです。
これからの文章も、その起源へのノスタルジアで書かれたものです。
 

永遠のドラキュラ

 

春が始まるころには、保育園、幼稚園で豆まき行事を行う。

園長先生や保育士の先生が、赤や青の鬼の面、衣装を着けて、こん棒を持って、

「悪い子はいないかー」と子供たちに声をかける。

園児たちは、アリの子を散らすように逃げまどい、泣き出す子が大勢いる。

鬼は、ぼさぼさ頭に二本の角をつけ、真っ赤に血走った目は飛び出し、口の両端から黄色ずんだ尖った犬歯が見え耳の近くまで裂けている。

衣装が、本物と見間違えるほどよくできており、子供たちは次の日に「鬼はいない?」と心配するほどだ。

言うことを聞かないと鬼が来るぞーと子供たちのトラウマとなるように演出している。

僕が、園長先生が入っているんだよと説明しても、子供には通じない。

かつてのように、平らな紙のお面ぐらいで十分だと思うが、凝りに凝ったお面や衣装が市販されているから、先生たちは多分喜んで作品に感謝しているかもしれない。

子供たちは、豆まきして鬼退治するどころではなく、保育士の先生の後ろにかくれて、おもらししながら泣きじゃくっている子もいる。

それでも、しばらくすると数人の元気な子供たちは、先生に諭されて豆まきを始める。

「鬼は外、福は内」

 

資料によると、鬼は縄文人の顔をデフォルメしたものだという。

西洋人顔で夏目漱石が代表的縄文顔と言われるが、目が二重で大きく、鼻も出っ張り、彫の深い角ばった顔。(金田一京助は、縄文系、蝦夷、アイヌを日本人でなく西洋人と主張していた)

氷河期を生き残ったうりざね顔、つり目かぎ鼻の弥生人にとって、縄文人は鬼だったのだろう。

日本各地で節分の豆まきが行われ、鬼が排除され、弥生人的気質「瑞穂の国」が出来上がった。

平安時代、嵯峨天皇の直系、源の綱のちの渡辺の綱一族(渡辺星という丸三つに一文字家紋が渡辺綱独占家紋)は、現在に至っても、豆まきをしないと言う。

それは、京・一条戻り橋に髪切りの太刀で鬼の片腕を切り落とした渡辺綱一族を恐れて攻撃してこないから必要がないと言うことのようだ。

征服した民は、征服された民を揶揄しておとしめることは世界中で普通にある。

稲作農耕民となった日ノ本の民は、日がな一日木陰で昼寝し談笑している縄文人を許さなかったのだろう。

定住する農耕民は、新しい知見では栄養が偏り、労働時間が長く、蓄えの防御のための戦の備えもあり縄文人より平均寿命が短かったと言う。

日が昇ってから日暮れまで田んぼに出、夜には家仕事で休む間もない彼らは、昼寝している縄文人を許す環境ではなかったのだろう。

3万年前ごろから日本に初めて住み始めた石器時代人は、狩猟採集生活だった。

今、国立科学博物館では、日本人の祖先が3万年前大陸から日本列島にわたって航海した草舟(ヒメガマで製作する)を作っている。

大陸と地続きだった台湾から、黒潮を超えて琉球列島にわたるルートを再現するそうだ。

その草舟と同じように新潟の粟島では、カヤで人が乗れるほどの七夕丸を作り七夕の日に海に流す行事がある。草舟は石斧で丸太舟や木の船ができるまでの間作られた。古事記の中にイザナギとイザナミの尊が蛭子を産んだので、それを葦舟に乗せて流したと記述がある。

粟島には石器遺跡があるので、現代人の彼らでも起源への思慕で毎年草舟をつくり、織姫にあこがれて継承しているとは、何かせつない思いがする。

 

生命は、他生命を捕獲する時、血沸き肉躍るように作られている。

だから、狩猟採集は労働ではなく喜びであった。

男たちは、チームを組んでシカやイノシシ、クマ、ウサギ、キジ、山鳥を狙い、時々とれるそれらの獲物の首筋に食らいつき、最後のとどめをしたと思う。

火を起こすまでは生き血を吸い、生き肉を食べただろう。

石器時代は大型動物を毎日食べることは出来ない。

タンパク質は、魚、貝がほとんどで、採取したクリやあく抜きした栃の実、ドングリ、食用野菜を発見しては、毎日の栄養にしていた。その時間一日2.3時間ぐらいと言われている。

そのほかの昼間の時間は、口琴を奏でたり、歌をうたったり、誰それの噂話にあけくれていただろう。

かれらは、現在の先住民と同じように、朝起きぬけに川や海に入り、口をゆすぎ、顔を洗い、髪の毛を手ですき、大小便をそのまま水の中に流した。

思うほど不潔ではない。

 

話が変わるが、

フランスの社会学者アンドレ・ゴルツが、現在の生活レベルを落とさずに週10時間労働(一日2時間、縄文人と同じほど)で社会が成り立つことが可能だと、仮設ではあるが面白い考えを述べている。

それには、戦争に備えた防備や訓練を止める。

     流通過程を、できるだけ地産地消としローカルな流通とする。

     バーチャルな金融システムを止める。

     各会社が過剰な利益を上げない。

地球の有限な環境を消費し尽さないようにするためには、持続できる消費と生産を考えなくてはならない。

4大文明が消えたのは、無限と思っていたエネルギー資源が有限となっても蕩尽したからだ。

ヨーロッパの森もすべて人工林だそうだ。原生林は一か所もない。

使い切っても、植林を怠らなければ持続可能であった。

人口減少が顕著なのは、人々が過去と同じように成長だけと考えていないから、必然の結果だと思う。

適応した環境に生きる生命体は、徐々に数を増やし爆発的に増えるようになると環境を破壊する。その時に絶滅するか、存続するかが環境資源の使い方できまる。

環境に合わせるには、人口を調整するしかない。

現在は、その狭間の時期なのだろう。

コルツが言う軍備を止めるには、はるかな時間がひつようだろう。

考えるものには世界は喜劇であり、感じるものには世界は悲劇だというが、

日本での悲惨な戦争経験も70年経ると、兵隊の海外派遣を合法化するようになる。

いつまでも懲りないのかと思うが、いつかは、悲惨の限りを味わって、もうこりごりだと言う時がくるだろう。それには経済成長が大きな障害となるだろう。

100200年先には、生活を楽しんで2.3時間の労働、そのような未来が望ましい。

 

西洋には、ヴァンパイア伝説がある。

死者がよみがえり、吸血して生きながらえる。

このような伝説は、世界の各地に残っているという。

ドラキュラ伝説は、農耕民が定住革命を起こした後、狩猟採集時代に望郷の念を感じることの現れだろう。日本の鬼と同じ位置にいる。

ドラキュラ映画の初期は、蝙蝠がクロマントのドラキュラに変身して、夜な夜なネグリジェ姿の美女をテラスに誘い出し、首筋に歯を立てるレイプ物に近い印象だったが、このところのドラキュラ映画は、ドラキュラ本人が主人公になってかつての生活を再現している。

ジム・ジャームッシュ監督の「オンリーラヴァーズ・レフト・アライブ」では、23百年生きているヴアンパイヤが,閉め切った部屋でギターを集め作曲で生計を立て、夜になると病院に新鮮な血を買い求めに行く。音楽を聞き、ギターを鳴らし、時には夜演奏会場に出向き自分の曲の演奏されていることを知る。

宮沢賢治が「農民芸術概論綱要」のなかで、

 職業芸術家は一度滅びねばならぬ

 誰人もみな芸術家たる感受をなせ

 個性の優れる方面において各々止む無き表現をなせ

 しかもめいめいそのときどきの芸術家である

 

 かつて我々の師父たちは乏しいながらかなり楽しく生きていた

 そこには芸術も宗教もあった

 今我々にはただ労働が、生存があるばかりである

 宗教は疲れて近代科学に置換されしかも科学は冷たく暗い

 

宮沢賢治は、農民にも文化的喜びが必要だと思っていた。

個性に合わせて表現をなせと言う。

日が名一日遊んで暮らすわけにはいかないが、喜びは労働にあるのではなく文化資本の充実にあると思っていただろう。

そして時には、首筋に噛みつかなくとも、狩猟する快楽に身を任せることがあってもいいと思う。

だから、ヴァンパイア映画は、どれも見たくなる。

どんな監督の映画でも、見ていて気持ちがいい。

世間につまはじきにされているけれど、生き方を変えない彼らにノスタルジーを感じる。

粟島の人々が、春に刈ったカヤを集めて、お盆に草舟を作る行事と同じ心性だと思う。

 

演劇人である平田オリザの新しい本に、生まれた地方に帰らないのは仕事がないからだけでなく、地方がつまらないからだと言う。

彼は,つまらない地方を演劇やアートなど文化資本を立ち上げることで創生する。

経済によって、地方をよみがえらせるのではなく、アートによって人が楽しみ、美味しい食事に、気持ちのいい温泉、地方にコミュニケーションの場を立ち上げることで、ひいては、人が集まり、地方だと思っていた故郷が、喜びのある場所に変わる。

宮沢賢治が言うように、かつては楽しい生活があったのだ。

季節ごとに(季節を味わうこと)獅子舞だったり、鹿踊りだったり、お盆にカヤで七夕丸を流したり、それらは、美しくていねいな技術が継承されなければ成り立たなかった。

そこには芸術が生きていた。

東北では、落ち込んでいた震災後の人々は、伝統的な鹿踊りを開催することで息を吹き返したとニュースが流れていた。

伝統でも、新しいコミュニケーションの場でも文化資本の充実が、生活を楽しみながら生きていける「かなめ」になっている。

 

江戸学の田中優子によると、24才と若くして亡くなった樋口一葉は「最後には乞食、カタイになりて果てたい」と言ったという。

世界文学全集で日本からただ一人苦界浄土で選ばれた石牟礼道子も「野垂れ死にしたい願望がある」と書いている。

もう一歩も歩けなくなって道端に伏し、青い空の中泳ぐ白い雲を眺めながら静かに目を閉じると、藪からは様々な虫の声が聞こえ、小梢では何種類かの鳥が鳴いている。

ときおり、遠くの方でシカの声が聞こえるかもしれない。

足元では、草がそよぎ、木の葉が顔に降りてくる。

もう一度目を開けると、紫のスミレの花がところどころに咲いている。

最後に、世界は美しいとひとこと言えるかもしれない。

現実には、家族に迷惑をかけ、山で遺体に遭遇した杣人を驚かせ、ふもとまで運ばなければならない、と、思うと実行は無理かなと思うが、

西行のように西に向かって一人ずた袋を背負い、山頭火が「分け入っても分け入っても青い山」と歩き続けたように、樋口一葉も石牟礼道子も縄文人の末裔の漂泊にあこがれたのだろう。

 

               28421日 近藤蔵人

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