2016年12月25日日曜日

豊かさ


 

中国で格言というか警句と言うか面白いことを言っています。「1分間幸せでいたければ飴でもなめればいい。1時間幸せでいたければお酒を飲めばいい。1か月幸せでいたければ何か高いものを買えばよい。一年幸せでいたければ家を建てるといい」

この話と、米国のコロンビア大学の研究報告「年収5百万円までの人は、お金が幸せの要因で、それを超えるとお金と幸せとは相関関係にない」と言う研究報告は結びつきます。家を建てるまでは買い物だからです。

安定した生活や家屋を手に入れるまでは、ひとびとはお金が必要です。だから、そういう政策が求められます。しかし、この中国の話の結びは「一生幸せでいたければ魚釣りを覚えなさい」といいます。

何か夢中になっておこなうこと、死ぬまで勉強ですと言えるようなことは、人生の楽しみだけでなく、複雑怪奇な人生の道筋のために必要です。それには一つだけ条件があるのだと思います。自然と関わることです。自然と関わる何か夢中になることがある、それが幸せの条件だと言っているのでしょう。年収5・6百万を超えた豊かな人は、豊かそのものが当たり前となり、やはり夢中になれることが、お金とは関係なく必要なのでしょう。

 

もう一つ、ハーバード大学の70年継続した研究発表です。

「何が幸福の条件か?」を探るために、ハーバード大学の学生700人を日々の生活にまで入り込みチェックしたものです。その中にはひとり大統領になったひともいたそうです。

教授は4代に渡ったそうですが、その現在の教授が「富と名誉にあこがれて入学してきた学生が、今では60人ほど存命で、やっと答えが出せるようになりました」

「幸せは量ではなく質のある人間関係が築けるかどうかにかかっています」「仕事でもなく、富も名声でもなく友人や家族に親密な人がいるかどうかです」と答えています。友との楽しい語らいがあれば健康にもいいとも述べています。これは、誰でも納得できる、ごく当たり前すぎる答えだが、70年の歳月と700人以上の人々の調査からわかった、純然たる研究報告です。

これらからわかるように、豊かさは希望であっても、実質の幸せには結びつきません。例えば、大会社の社長が、重病で入院すると大勢の見舞客が来るでしょう。中には親密な人もいるだろうが、その人達は、政治経済がらみで付き合っている人たちです。片や、2,3の友人を持つあばら家住まいの者がベッドで横になっているところ、「どうしたんや、だいじょうぶか?」と声をかけてくれる。ずいぶん違うと思います。

 

豊かさの中でも、人は孤独を感じます。虚無を感じる人もいます。それを感じないために、何か夢中になってやることが必要なのだと思います。

また、映画を毎日見ていると、どこの国でも家族関係に物語の発端があります。日本では、戦後始まった母娘の格闘、昔からある父の権威に抵抗する息子たち、男性では母子癒着、アメリカのミソジニー(女性嫌悪)に近い恐妻家、豊かであっても平等にあたえられた苦悩です。今はそれに貧困の問題も現れている。現実の問題は複雑怪奇で解決の糸口さえ見つからないようです。

内田樹は、他人とうまく付き合うには「問題を発見しない、問題を解決しようとしない」と言います。そのままを認める肯定するということでしょうか。これは、仏教徒の生き方を彷彿します。色即是空を現代語訳したようです。こうありたいと思っても困難なことです。どうしても、僕はこうしたいが、でてくる。養老孟司は、夫婦でものを投げるけんかをしたと言いますが、相手を変えるのでなく自分が変わればいいといいます。これも簡単にできることではありません。それでも、安心な生活のために努力する。これらの言葉を修行する価値はあります。

 

その上、先ほど書いた虚無が豊かさの中から現れてきます。その原因を僕なりに考えた推論があります。

飲む打つ買うに蕩尽する金持ちはたくさんいます。裕福になると快楽が人生の意味となるのでしょう。これは、虚無感を取り除こうと必死になっている姿ともとれます。無我夢中に生きていると、虚無感は感じなくて済みますが、孤独になると虚しくなる。

小津安二郎の名作「東京物語」は、世界の監督数百人のアンケートの中、トップ投票されました。田舎から都会に出て就職した子供たちが、自分の生活に目いっぱいで両親が上京しても親切に対応しない。見ている観客は、一部感情移入できても、最後には突き放されて、この映画はどういう映画なのだろうと宙ずりになります。映画は普遍的な人生の孤独、虚無を表しています。そこのところに、映画のプロは感じ入ったのでしょう。

その虚無感はどこから出てくるのか、僕なりの答えです。

それは、人類の原初の姿、さらに、細胞が出来る時にまでさかのぼります。

すべての物体は電気的にできています。原子で構成されているからです。原子を作る膜のまわりにはマイナスの電子が回っており、中にはプラスの陽子と電気を帯びない中性子が入っています。プラスとマイナスが調和した原子の集まりがすべての物体を作っています。電子と陽子は無限と思われる時間生き続けますが、中性子は15分で分解され、クオークとニュートリノに分かれます。ニュートリノは、1秒間に数兆個人体を通過しているそうです。

ビックバン以降、宇宙にはクオークとニュートリノと電子、陽子が自由に飛び回っていた。それらが、原子となり物質となる。

地球が冷やされ海に水が満たされたとき、海面に落ちた隕石から細胞のもととなるアミノ酸が生成され、アミノ酸が充満すると、海底の活火山から噴き出す熱水によって、原初の単細胞が生まれたと言われています。

その単細胞の膜ができたことによって、宇宙から隔離され自由に飛び回ることができない電子陽子たちのうめき声が聞こえる。宇宙にはもう帰ることができない。ゆえの虚無ではないだろうかと僕は考えています。腐って分解されてやっと帰れる。生きているうちは閉じ込められている。当然生の願望はありますが、死の願望もあると言われるゆえんです。

この仮説の最もヒントになったのは、日本最初期の物語「かぐや姫」です。豊かな生活を保障する裕福な帝たちの求婚にも関わらず月に帰る。宇宙からやってきて宇宙に帰る物語です。この時期に、どうしてこういう物語が書かれたかはわかりませんが、人間の無意識の記憶がただならぬことだけは現代科学が様々に証明しています。

電気的に生成されている人類も、すべての行きとし生きるものも、また、石や水にも、原子が元であるゆえ電気は流れています。昨年の東大の研究では、その電気が外周にごく微量の膜を作っているという発見がありました。すべての物体には、その準静電界と呼ばれる個性的に作られた膜があるそうです。犬が、見えない主人を感知して、玄関で待っているのは、主人の個別的準静電界を感じているからだそうです。人に気配を感じる力があるのもその膜を感じているのです。うっそうとした森に畏怖感があるのもそのためでしょう。木や石が神の憑代と感じるのも、治療家が手当で直すのも、電気的な事象に違いない。そう思います。

動物には、それを強く感じる機関が残っている種類がいます。サメやエイやカモノハシがそうです。人間では、原始的な機関として残存している耳の中蝸牛の有毛細胞が、体の中では電圧が一番高く、ここで音と同時に感じているのだと研究報国にあります。産毛や髪の毛も、怒髪天を衝くとか総毛立つとかも、そういう現象なんでしょう。

雷が起るように、宇宙も電気に満ちています。準静電界も宇宙の電界とつながっていないわけがありません。植芝良平の合気道では、宇宙に満ちた気を取り入れる修行をします。北大の数学の教授が、数学の真理と同じように、心が宇宙にあり、それを一人ひとりが自分に取り入れる。なんとも不可思議な研究もあります。僕は、それらから人間の魂は脳にあるのではなく、体を取り巻くその膜にあるのではないかと思っています。

 

宮沢賢治が「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」

「無意識部から溢れるものでなければ多く無力か詐欺である」

「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう」

「われらに要るものは銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱である」宮沢賢治は虚無ととらえず、生きる力としての宇宙を感じています。

しかし、銀河鉄道のジョバンニの独り言に「こんな静かないいとこで、僕はどうしてもっと愉快になれないのだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう」とも言わせます。

 

人が生きていくには、宇宙や自然を身近に感じることが大切だと考えています。虚無感を一時感じても、生まれ故郷の宇宙や自然をないがしろにすることは、しあわせを放棄するようなものです。だが、現在の日本人はまるごと「きれいきれい病」にかかっていて、自然に触れる機会など考えることがない。子供の時から自然に親しむことは、教育の最も大事なことです。

宮沢賢治が、芸術を創造するには「無意識部から溢れるものでなければ多く無力か詐欺である」と先ほど書きました。小説家は、プロットの通り書いていても無力で、書き進めると筆が動くようになって、プロットなど関係なく書き進められるものの中に傑作が現れると言います。僕は、鬱を一年間味わいましたが、無性に、絵がかきたい、絵をかいてあの無心の法悦状態になりたいと、あこがれました。法悦とは、宇宙との邂逅、一体感、銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱と共にあるときです。

あなたにもあったのではないでしょうか。
幼いころ、虫取りや河原のグイノ実を取る川遊びにふけった頃が。
まあるい熱い石で満たされた河原に、バッタが飛び、ところどころの小藪にあるグイノミをほおばり、後で食べようとポケットに突っ込む。
速い流れの小川に入り、白く光った水中でアユや小魚と泳ぐ。唇が紫色になって冷たくなると、太陽に照らされ熱くなった大きな石の表面に寝そべって、からだや顔をひっつける。
見ると、石の表面の黒く濡れた後が、みるみる消えていく。そのまま仰向きになり背中を温め空を見上げると、ギラギラ輝いた太陽と一面真っ青な空。
山の上からもりあがってきた真っ白な入道雲、パンツだけはいて大急ぎで走り始めると、パラパラと水滴が当たる。
もう駄目だ、家までには土砂降りだとあきらめたとき、ふっと心が晴れる。
頭からびしょ濡れでも、なぜか笑みが漏れる。
こんなにいい気持、前も見えないほどの雨の中、生きているとはこういうことかと思うほどの感動。
今宇宙が祝福してくれている生の充実感。生きてきて良かったと思える瞬間。
歴史家ヘロドトスが、少年時代は黄金に輝いていると言う時、僕はこの経験を思い出す。

 

最後にパステルナークの小説ドクトルジバコで主人公が「原野の空気」を吸い込む場面、

「父や母よりも懐かしく、

愛する人よりも素晴らしく、

書物よりも知的な空気--

それを吸うと、一瞬、ラーラは、存在の意味を掲示されるのだった。

私がここにいるのは、この地上の生の狂おしいばかりの魅力を解き明かし、

すべてのものにふさわしい名を与えるためなのだ」

 

宇宙。空気。それを吸うと存在の喜びと意味が提示される。

地上の生きとし生けるものの狂おしいばかりの魅力。

空、山なみ、木々、海、川、大地、咲き誇る草花。世界は美しい。

それらの存在の魅力を解き明かしたいという願望。

それらはすべて電気的につながっており、それぞれのコミュニケーションがあるだろう。強く保持する感じる力が必要だが、それとともに心の開放も必要だ。時には、意志の力を横に置いていても、感覚にこころひらくべきなのだろう。

もう一度宮沢賢治

「われらに要るものは銀河を包む透明な意志、巨きな力と熱である」

「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方のかなたにちらばろう」

 

豊かさについて書いていくと、このところまで来てしまいました。

 

僕は今山住まいです。そこで和歌を一首

「天地(あめつち)も こころしてまつ さむぞらを それもまたよし やまごやのふゆ」 ちょっと、語るに落ちたかな。

2 件のコメント:

  1. 社長、大変ご無沙汰しております。
    元気ですか?
    山暮らし、とっても楽しそうですね。
    今度、遊びに行きます。。山本

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    1. パソコンのアドレス変わっていません。kondo@kurodo.net です。楽しみにしています。

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