2016年12月10日土曜日

和をもって貴しとする

前回、家族間の関係性は、地域によって変化があると書きました。その後、いろいろ考えてみると、おもしろい接合が出来ましたので、書いてみます。

 養老孟司が、アメリカは日本から比べれば1000年遅れていると述べています。
 聖徳太子が、「和をもって貴しとする」と言ったのは、当時、様々な地域、樺太・朝鮮半島・揚子江周辺の海住民、南からポリネシア系が日本に流浪の民としてやってきた。彼らが来るまでは石器時代の縄文人が住んでいました。それらの民族が言語の違い、生活習慣などの違いによって争いに明け暮れていたからです。
 天下人聖徳太子としては、いさかいを起こすなと、そう言わざる得なかったのでしょう。太子の子供二人も政争で殺されます。養老先生はそういう風に書いています。
 そののち 日本では、秀吉の刀狩りがあり、千数百年後の明治維新で廃刀令が施行されます。アメリカの廃銃令もその位の時間がかかると言うことです。
 アメリカは、建国の時点で、自由を守るため銃所持を認めている。それぞれの移民が、同一人種と感じるまでは、自己を守るために武器が必要とされたのでしょう。
 日本人と言ってもそのまま通じますが、アメリカ人と言ったとき、イギリス系?ドイツ系?プエルトリコ、メキシコ、フランス、イタリア系、アイルランド系と想像します。今でも、統一したアメリカ人とは考えられないのです。聖徳太子の時代と同じです。

 アメリカでは、エレベーターに乗ると、同乗車に声を掛けると聞きます。異質な人々の寄り合いであるアメリカ人は、密室の同乗者に害があるかないかエレベーター内で確認しないと不安なのでしょう。日本人は、エレベーター内で、できるだけ顔を合わせない。ドアを静かに見つめているだけで、声をかけることは思いもしません。他人に危害を加える人がいることを想像しないのです。これが、日本人とアメリカ人との、他人に対する接し方の基本的な現れであると感じます。
 他者を、仲間か敵かに分別しなければ安心できないアメリカ人と、同質性が強い仲間意識だけで暮らせる日本との違いであるのです。
 欧米では仲間同士であることを表現するために、大げさにハグし、頬にキスし、敵でないことを示すため握手する。仲が良いことをそれほど過剰に表現しなければ、仲間の人間であることを証明できないのです。アメリカもあと1000年すると、日本のようになるか僕にはわかりません。移民がどれほど訪れるかによるとも思います。
 日本では、かつては他民族の集まりであっても、千年たった今、同一人種と考えるようになっています。こうして比較することでいろいろ解ることがあります。
 日本では、毎日のように、夫婦で愛しているよと言わないし、誕生日プレゼントや祝いの習慣は弱い。何事も夫婦協議のもとに、事を進めることはすくないし、夫婦でパーティーに出ることもない。日本の夫婦は、仲が悪くて普通であったのです。格別口に出さない意思の疎通です。父と子は会話しないし、母と娘は連れ添って買い物に行きます。が、息子は、母親癒着で苦しみます。
 移民の少ない1000年は、様々なことを平均化しました。エマニュエル・ドットは人口学者ですが、日本は権威主義家族で、親に権威が集中し、兄弟間では兄に権威がある社会とドットは言います。妻に向かって「男の会話に口を挟むな!」「女はだまっていろ」と言われてきました。亭主関白は、今でも残存しています。
 しかし、時間は様々なことの変化をもよおします。欧米の文化に触れ、自由、平等、基本的人権と戦後教育された我々には、かつての風習に嫌悪感を持っています。少しも偉くもないのに、親の権威だけで偉そうにする、と、個人主義がいきわたることになりました。
 父親に反抗した分、長じて結婚して権威をかさに話すことに自己嫌悪を感じる世代です。今は権威主義家族から、個人主義に変わるはざかい期にあり、まだまだ日本の家族は問題を抱えています。亭主関白でありながら恐妻家がいるのです。
 家族の問題は、世界中の人々の困難な難問です。養老孟司は、相手を変えようとするから大変なので、自分が変わればいい、と書きます。そして、医院を一人開業していた女医である母親を、姉が包丁を持って町内一回り追いかけたとつづります。
 内田樹は、離婚し10数年一人で育てた娘さんが、物心ついてきて、返事もしないし、言うことも聞かないと書いています。何とか家族が平安に過ごす方法として、子供をエイリアンと考えるようにしたそうです。同じようにやらないことに腹が立つので、猫とかレベルを下げると、猫なのにこんなこともできる、あんなこともできるとポジティブに考えられる。そうして親子関係の安定を図ったと書いています。渡辺京二は、ひとこと、男には好きな女がいることだよと、人生の必要事項を看破します。
 世界には、正常な人間はいません。皆傷物として大きくなります。傷物が育てる子供も傷物です。それでも、共同体を形成しなければならないし、家族の営みも続けなければなりません。そんな人間が、何とか生きやすいように、それぞれの地域の風習が出来上がっています。
 仲が悪くてもいい日本の夫婦関係も、時代の波に飲み込まれて、徐々に仲が良くなければならないように変化してきました。そのためのいさかいが増えてきているのです。アメリカでは、いまだにミソジニー、女性嫌悪が取り上げられます。日本では、恐妻家が多数見受けられます。
 自分の感情を表現することが生きる意味と,洗いざらい口にするようになったのです。確かに、感情はその場では止めることが不可能のように思えますが、それは、ほとんど気分であって、字面のように、分ければいいのだと思います。感情を持続するのでなく、気分なのだから、大事に取っておく必要がないのです。
 いつの日か、感情にとらわれない夫婦関係・家族関係ができるといいのですが。

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