2016年7月30日土曜日

海と絵

参議院戦後、憂鬱な感覚で過ごしている。
先の不安を今に持つことはないかと、あらためている途中だが、
いきとし生けるもの、政治も経済も2次と思い定めて、今を生きている。
充実、甲斐を持っていたい。
そう考えると、そんな文章があったと思い出した。

「海と絵」

 

 絵を描くと言うことは、対象を見つめることである。

見える範囲のどんな些細なことでも見落とさない。

些細なこととは、明暗の差と、ライン・物の境界線のことである。

白紙の画面に向かって、物の輪郭を薄く間違いながらでも描いていく。

間違った線は、後で消せばよいのである。(実際には、グリッドをひいて描いていく)

この辺の作業は、シューマンでも聞きながら、大まかに勢いだけで描いている。

輪郭線を、間違って決めてしまうと、あと後まで響くので、書きなおしをしながら決めていく。(シューマンは、本当に日本人的だと思う)

 

 対象を眺めて、暗いところ、明るいところと対象の物の識別より、明暗のみの識別を、2B,3Bの鉛筆で薄く斜線で塗り分けていく。

次に4B,5Bと徐々に濃くしていく、この段階で、すこしずつ物の形態の把握に努めていく。一番明るい処と、くらい処を決めて、その間の明暗に沿って描く。

 画面に描かれるのは、広い海に出っ張る岩だけで出来た小島と、其れに打ち寄せる波、白波などである。

僕は、陸から突き出た高い岩山から、見降ろしている。

見降ろしている僕の存在がわかれば、よしとする。

ここから見ているのだなと、感じて欲しいのである。

 ここは佐渡の北にある、瀬波温泉から北北西の位置にある粟島。

住民は400人程で、自転車で一周出来るだけの小さな島である。

今は日本中が都会になっており、すべて、自分の思う通りになることを、良しとしている。しかし、孤島では、海の影響を考えないと生活できない。自然に沿って生活するその状態を田舎という。田舎というのは孤島にしか存在しない理由である。

ここでは、元寇と戦った松浦水軍、摂津で活躍した渡辺党の一族と、新潟本土からきた本保家などが漁師と、民宿を兼ねて営業している。

ほとんどすべての人々が、狩猟採集に従事しており、隼人の民、海人族から、平家、源氏の力の下で、水運・武士を兼ねた歴史に登場する人たちであり、海人族の末裔を感じさせる。

本土の日本人は、縄文も弥生も混血されて、それでも縄文顔には、時々お目にかかるが、粟島では、混血が少なく、縄文顔が多く見える。

縄文顔は西洋人風で、明治に発行された「越後風俗史」には、粟島では、男子は体格偉大強健にて容貌和順、女子は眉目清秀多しとある。要するに、美男、美女が多い。

この島の南西にある釜谷。ここで舟休みし、夕飯でも食べたかのような名称の村が、往きつけの村である。高台には、塩釜六所神社がある。

定宿のお神は、え!と言うほどの身目麗しき乙女であったが、年月がたつのは定めであるが、その兄が僕と同い年で、誇張しなくても鬼顔で、釣り師である。

「おら、いやだ!」と言ったら、梃子でも動かず、子供が居たら、飛んで行って、かまって遊んでいる。

彼のファンと、雉バトの声を持つお神のファンでこの宿はなりたっており、彼の如く、おらいやだの世界に浸りたくて、釣りに来るのである。

まさに、中井久夫氏述べるところの、狩猟採集民の世界である。

鬼顔の彼が、釣り道具は、リール、竿、道糸(リールに巻く糸)、ハリス(針をつける糸)、その間の重りだけで、簡素極まりなく、飾りっけなく、最もシンプルで、後に、古代釣りと命名するその釣り方を教わった師匠である。

その宿のお神の通い婚の主が、本来の釣りの師匠である。

彼いわく「鯛は一匹づつ個性がある」。

「針に付いた餌がっちょ(ヤドカリ)を、大鯛がくわえている、こちらはそれを引っ張っていて、手元に感じるんだ」と、鯛との格闘の瞬間を述べる。

「夕闇に隠れるまでの2.3時間が勝負だ」

 釣り時間になると、在郷者の僕らの姿など顧みず、猪の様に釣り場に向かう。まるで、何日も魚釣りをしない釣師の様に、切羽詰まって急いでいる。頭の中は狙う大鯛だけだ。

釣りを同行させていただいて、無様にも竿先が折れて釣りにならない時、師匠の釣っている後方で眺めていると、竿をゆっくりと上げ下げしている。餌のがっちょは、底付近で鯛の来るのを、じっと待たしている方法の釣りが本道だと思っていた(がっちょは飛び上がることはない)自分が、惨めになった。鯛は、動いている餌に、好奇心でよって来る。当たり前のことである。

魚は、流れの有る下流から、流れに逆らって登って移動する。餌は上流から流れてくるからだ。その時、匂いと、音と、視線によって餌と認定する。動かす方法さえマスターすれば、格段に魚が見つける確率が上がる。

 

 焦って餌を食う魚は、竿先が水中へ曲がる程、食って移動する。これは誰でも釣れる。

しかし、学習しているからか、慎重な魚の方が多いのだ。

小魚でさえ、えさの先を食っては反転することを繰り返すから、針に掛らない。

竿先が、10センチ、20センチと軽く沈んでも、すぐに起き上がるような当たりが続くと、小魚と思って間違いない。

竿先にコンコンと小さな当たりに、小魚と、大物のあたりが隠れている。

重りの負荷で、竿先は、すこし海側に曲がっている。それが常態である。

その竿先に1センチ程の変化がコンコンという当たりだ。竿とリールを握っている手元に伝わってくる。そのあたりで合わせても、魚の口に針がかかることは稀だ。

魚が、重りの下5センチ程のところにある針のついた餌を、前歯で食い直後、横に首を振り餌をはなす。または、餌の針以外のところを食っている、その状態がコンコンだ。

すぐ離すので針に掛りづらい。しかし、2度目か3度目のコンコンで、竿を大きく素早く起こして(それを合わせるというのだが)ためさなければならない。

食いの立っている日は、潮流の変化、水温、風向き、波頭の大きさ・荒さ、などで、刻々と変化する。潮目が流れていない時は、流れに乗って餌を探す習性の魚は、食い気が少なくなる。恒温動物でない魚の体温の変化も大切な要素だ。水温が上がると魚の体温が上がり、熱中症となり。水温が下がると、魚の血液の循環が悪くなり、どちらも食餌しない。

それらのととのった良い日が、大漁が期待できる魚の食餌する日だ。

そんな日に何回あたっただろうか?年数回の釣行では、めぐり合うことの方が難しい。

これらの変化の中、磯のある地点に魚が回遊、寄って来る場所がある。

魚の道があるのだ。

 まき餌を使わない僕の釣りでは、魚が食餌に来る場所の暗記(ポイントという)が、最も大切なことである。5時間寄ってこなくても、夕闇が迫ってきたころ合いには、来る確立が上がる。

その時間を目安に、絶えず竿の先に緊張感を持続する。

精神が切れたら、大物は釣れない。

先程の、コンコンで釣れない時には、その日は違う食べ方を魚がしているということだ。

食いのいい時には、コンコンのあと、大きく竿がしなって、海中まで竿が折れんがばかりにまがる。大きく合わせた竿に引っ張られて魚がこちらを向く。大物ならすぐに反転して、沖に向かって一直線に走りだす。鯛は短距離走者の鯛が多く、大きければ走ったまま、こちらも向かずに一直線だ。リールは鳴き続け、竿はのされて立てられず、挙句に、糸が切れて、竿の力がなくなる。1mもある真鯛だ。竿の号数を大きくし、糸を太くすれば持ちこたえられるが、それでは、興味がわかない。

細竿で、竿に会った細糸で釣ることこそ、魚に、敬意を表することなのである。

出来るだけ魚と対等でありたいのだ。その危うい瞬間が愉悦のもとなのだ。

 さあ、今日は食い気のない日である。

日中小魚が、うるさく餌にからみつく。釣っては逃がす。それらは、外道と言って、狙っている魚でなく、持って帰りたくない、ふぐ、べら、スズメダイ、コッパグレ、などである。

魚が、餌を食べている音は、大切な大物を寄せる儀式である。

小魚に食べさせると、そのグチャ、グチャいう音が、まわりに反響し大物が寄って来る。水の中の音は、大気より伝達力があるためだ。

 太陽が水平線を真っ赤に染め、徐々に黄金色に変化して、海にとろけ込むようになる。まわりが薄暗くなると。小魚の当たりがなくなり、餌が針についたまま上がって来る。

しめた、待ちに待った瞬間が来る。大物が寄ってきたので、小魚は恐ろしくて退散したのだ。

より強く集中する。竿を立てて、餌の有無を確認する。餌はある。

竿をゆっくりと上下している。

う! 竿を上げると、根がかりの様に竿の先が沈んでいる。

ふっと竿先持ち上がる。

手元のリールと竿を持っている部分がゴリと言う。

重りの振動音である。

大物が針にさわって、上下に餌を動かさず、重りだけ動かした、その音だ。

竿をゆっくり10センチ程上げる。

また、食っている。竿先が上がらない。曲がったままだ。

のせ!のせ!とこころで叫ぶ。

竿先が、くわえた餌を離した反動でふっと上がる。餌を離した。

大物が、居ついてホバリングしたような状態で、餌をくわえたり、離したりしている。

その餌と僕の手は、繋がっている。

鯛が居る。その鯛と僕は繋がっている。

水中の底に間違いなく鯛が、僕の餌に食らいついている。

前歯でくわえている。

前歯に合わせて鯛を釣っても、途中で離れる確率は高い。

歯の中まで針はのめり込まない。何としてでも身に掛けなければ。

鯛が反転してくれさえすれば、口の脇に針がかかる。

のせ!というのは、走っていけ!と念じているのだ。

そうすると、鯛の体に針は掛かり、僕の竿は満月に曲がり、リールは悲鳴をあげる。

りーーーーと。

 

 三回目の、くわえだ。竿先が曲がったままだ。

えいや!と合わせる。

かかった。

こちらを向いて頭を振っている。鯛だけは、こちらを向くと、針を外したいのだろう、首を右に左に、振り続ける。ゴン。ゴンと竿が揺れる。

あれ!軽い!。

こんなはずはない。大鯛のはずだ。

首は振っているが、竿につれて上がって来る。

小さい。

あれ、小さい。

 

帰って、大物の当たりなのに掛ったのは小物ってことある?と師匠に聞くが

そんなことはないと即座に答えられた。

さすれば、あの当たりはなんだったのだろう?

 

奥が深い。ふーむ。

 

 それらの生き物たちが住む海の深みも表わさなければならない。

小島と、僕が立っている岩は明るい、海は深緑で岩に比べて暗い。

その差を鉛筆で描いていく作業が、何日も続く。

こちらは鉛筆書きなので、ひと動きに一本の線しか引けない。

その積み重なりで、面を暗くする。

マーラーの5番をかける。音が鳴っていても時々しか音楽を聞いていない。

ぐっと来るフレーズに声を合わせてうなる。音楽を聞きながら絵を描くことが、集中の秘訣と思っている。

 画面に集中する。小島は、奥の大きな小島と、手前の小さな島とあり、その間を、水路となって水が行き来している。風は東から西に、画面では左から右に吹いている。

その為、磯の左側は波立ち、右側は鏡のように平らな所がある。

水路から小さな波が立っているが、周りは濃い。

小島の向うには、広い海が水平線まで続いている。間に潮目が何本かある。

手前には、僕が立って見ている岩棚、そして、小島までの海。

この島と岩棚の間に有る海を、今あるその海の様に描きたい。

この認識は、前景としては現れてこない。

ただ、右手と鉛筆だけが動き続けている。

目は画面に集中し、空間は、音に満たされ、見たまま、それだけを、もう、何も考えることなく、手だけが動き続ける。誰が描いているのか解らない状態である。

深さを表す暗いみどり、そこにうねりが入っている。

うねりの上には、小波が立つ、その小波の上に、左から吹く風にあおられて、海の表面だけ風に影響された薄い被膜部分の波。スーと左から表面が揺れる。

それらの動き続ける海、まるで生きているように生動する海。

自然はなんと饒舌なんだろう。

一か所、一か所に生動の意味がある。

その海の中に、微生物からプランクトン、小魚、岩に付くサザエ、アワビ、貝、カニ、海藻、そして海牛、ひとで、うに、透き通った海ではそれらが波間にゆられて、こちらを見ている。

見るつもりになれば、自然の息吹きが聞こえてくる。

それらのすべてを描写したい。

 

 描写とは言祝ぐことかもしれない。

あなたは、美しい。美しいあなたをそのまま表したい。

早春賦の、賦とは、事物を羅列して言祝ぐことだったという。

山があり、木々があり、花が咲く。

花は、純白あり、深紅にそまるものもある。

しろい昼の月が輝き、透き通る青い空がある。というように、羅列する。

言わば、写生である。

写生の本義は、つまるところ、自然の賛美であるのだ。

あなたはこんなにも美しい。

あなたを歌わないではいられない。

それが、生の意味となり、生の充足となる。
 
 
追記
今になって思えば、魚釣りも絵を描くことも、修行だったと思う。
楽しみで絵を描き、楽しみで魚釣りに出かけていたと考えていたが、海の中を想像し、流れを感じ、海中の高低差を探し、魚が通る道を探し当て、水の温度による魚の活性を感じ、座禅を組んでいるように、意識が自然と一体になるように緊張を持続させる。
緊張が切れたら魚は釣れない。
 世の人は、のんびり魚釣りいいですね、と言うが、とんでもない、緊張しに行くのが、楽しみなのだ。
それからが、釣りの本番なのだ。
鯛も、石鯛も、簡単に釣れるものではない。
僕を師匠と呼ぶ釣り友は、我流を通して何十回もの釣行でも、一匹も釣れない。本当に一匹も釣れない。
1段階2段階と修行を納めて、3段階4段階を目指して上手になる。釣り友よ、修行は厳しいのだ。
それで、ハタと気が付いた。
日頃の政治や経済の苦悩や、思い通りにならない腹立たしさや、自分の行動の後悔や、身にからまったどうしようもないと思い込んでいることごとは、いやだなーと思うのでなく、修行だと思えばいいのだ。
段階をあげていく。
ウツっぽく内省していても、同じことの繰り返しなのだから、
そうだ、修行と思おう、いくらか元気が出てくる気がしてくる。

                        

                 
 

 

 

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