2016年7月30日土曜日

夏の光

海と絵と同じ時期に書いた文章、いろいろなところに書いたのでご存知の方もいるやも知れず、ちと恥ずかしいが、憂鬱を吹き飛ばすには、このぐらいがいいかも。
      
夏の光


ボードレールに「アデュー、ナントカカントカ(仏語です)」と書かれた心に残る詩文があった。

「さらば! つかのまのわれらが激しき夏の光よ」と訳されている。

これを我流で意訳すると、以下の通り。

 

我々の生における謳歌は、夏の光の元にあって、いまなお記憶に鮮烈に残っている。

夏の日の一日は生の充実にあふれていた。

その夏の日を、二度と味わうことは出来ないけれど、

夏になると、気持ちがたかぶり、うずうずとしてくる。

思い出さずにいられない夏。

 

そして、時が来て、惜別の歌・・・・。

夏が過ぎ中秋の名月あたりのひんやりとした風にあたると歌わざる得なくなる。

「さらば! つかのまのわれらが激しき夏の光よ」と。

 

馬齢を重ねると、その思い出こそ生きてきた証のように感じられる、

少年時代は黄金のように輝き、詩人が「激しき夏の光」と歌ったように、

人生の肯定、生きていて良かったと思える時間を持っていた。

いつか、自死を想像する事あっても、その瞬間を思い出す余裕があれば、止まれる事柄。

それらを含めて詩人は歌ったのだと思われる。

 

須磨海岸の海水浴、魚とり、

朝早く起きてかぶと虫、

井戸で冷やされたスイカ、山登り、

徳島吉野川の川遊び、

アユを追いかけ、震えが来ると水に冷えた頬を、焼けた岩に当てる。ゆっくり消えていく黒い水あと。

真っ青な空、輝く入道雲、すぐさま稲光、

土砂降りの雨、縁側から雨が跳ねる景色を飽かず眺める、

止むと見晴らすばかりの竹林ときらめく吉野川、貞光の町の後ろにそびえる青い山と、谷また山。

自然との感動的な邂逅だった。

毎日は過酷に過ぎて行き、叙情的であることは生活不適者となじられる

しかし、目鼻の達人のように生きずとも、時にはよいではないか。
僕たちは、パンのためだけに生きているのではない。

 

「青い太陽にささげられた水しぶきよ!白く輝いて飛翔せよ!」

 

生には、他者との付き合いで生まれる、喜びと苦しみ、

自然の中で生まれる感動と恍惚、
・・・その時、世界が僕の存在を祝福してくれている。

慈母のような自然と、厳父のような自然との邂逅。

他者からの苦しみは自然が癒し、自然からの苦しみは他者と分かち合う。

世界は、他者だけで成り立っているのではない。

自然がある。僕たちは自然から生まれたのだ。

女性的なるものは、14,5歳から発揮されて夏をこよなく愛することが出来なくなるのか?

だが、男性的なる幼児性は隠されていても生涯にわたって現れてくるものだ。

しらずしらずに、ひんやりとした季節を迎えると

なにやら心さびしくなるのは、
生にはあの激しい季節を包摂した経験があるからなのだ

そして惜別の名残を込めて

「さらば!つかのまのわれらが激しき夏の光よ!」

と歌ったのだ。

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