2016年6月8日水曜日

良寛さん

江戸後期、良寛さんは、たくさんの平明で解り易い和歌を残し、漢詩で信条や思いを表し、空海以上だと言われる書を書いた。書聖と言われる王羲之と並ぶほどだと吉本隆明は「良寛」に書いている。その和歌を、年代順に、また、心情に沿って写しました。
良寛さんの和歌は、毎日のことごとや、思いを僕にでも伝わるように歌っている。目立って多い「袖を涙で濡らす」と、寂しさや、苦しさや、嘆き、また後期の恋歌とも思われる和歌が、良寛さんが身近な人だと感じるゆえんにも思います、が、道元禅の修行を果たし、高名な師に印可を授けられ、どこのお寺でも住職が務まる位にある人でした。自分はのほほんとして大愚であり、何の役にも立たないものだと、気質を受け入れていますが、何か悲しげです。最後には、彼女の前で「くそまみれだ」と歌う良寛さんの歌を味わってください。


良寛さん

 

還暦を過ぎると岩波文庫の赤本から黄本に変わると言われる。

読書の傾向が西洋物から和物に変わるということだ。

世界のすべての芸術に淫して偏愛する友人が、書物から映像作品、音楽、絵画等僕のもとに廻してくれる。その彼もこのところ日本文学に傾倒しはじめた。

ほとんど僕の趣味は彼の趣味の延長上にある。

そうして和物を読んでいると、いたるところに腑に落ちるところがある。

西洋物では考えられないことだった。

「漂泊」物を読み始め、この言葉の「気持ちのいい響き」を考えてみたくなった。

僕は、漂泊とまでいかなくても、休みになると海に行く習性、学生時代の一人旅、青年になっても宗谷岬や鹿児島までのヒッチハイク、真冬の小便器の前の棚に寝ころんでの睡眠、電話ボックスの中腰を曲げての眠り、クマが出るとおどされた旭川の夜中の山歩き。(そういう旅から帰って,畳で休むと数日するとまた旅に出たくなったものだ)

父親の兄弟の行き倒れや、生地四国での遍路の見聞きによる漂う感はあったのだと思う。しかし、この感情は自分の記憶からだけ思い起こされるものではないような気がする。

ドイツの社会学者ジンメルが述べるように、「漂泊」には世のシガラミから解放される自由そのものがあるからだ。

生活の困難さ(生きとし生けるもの、困難を含まない生命はない。大木でさえ地中に自己を攻撃してくる敵を毒殺しようと待機しているのだから)はさておき、漂泊という自由から紡ぎだされた数々の芸能と芸術。

定住民は漂泊民によって作る物語や歌舞音曲、絵画、彫刻、さまざまな芸術によって救出される。

 

かつて、農村に放浪してきた画家は、その村の名主や庄屋に居候した。

そして、飲食をむさぼった返礼に画や書を寄贈した。

その家には、両親やじじ、ばば、子供たちに使用人たちが生活している。

その中、画家は昼寝し、放庇し、大声をあげた。

子供たちを釣りに誘い、大ボラを吹いて、世人たちをあわてさせもしたであろう。

朝夕と言わず飲み明け、

しらふの折に、襖に向かって筆を走らせる。

毎日の生活の中に、紛れ込んだ異人。

調和を乱す漂泊者。

彼が居ることによっておこる場の破たん。

それらは、定住者たちにとって、ちょうど道化師が訪れたようなおかしみを伴っていた。台風が来る恐怖と畏敬と似て、過ぎ去ると清らかな朝の空気が訪れた。

生活にピリオドがうたれ、考え方の変化が起こり、なにやら楽しみともなった。

変化のない毎日に辟易していた定住者たちには、明けの明星のように心躍る日々であったかもしれない。波風のない水面に、一条の光と成って、ひとつぶの流星がみなもを騒がせているようである。まれびととして発生した漂泊者は、定住者のなかで、生気を誕生させ、ひとびとにすがすがしい朝を体験させた。

そうして僕は漂泊の民の末裔であるのだ。

いまさら土着定住から脱出することを勧めているわけではない。

定着の居つき(トラウマ)から避難する場所が出来れば満足だと言える。

居つくとは武道で使われる言葉である。

居つく状態は攻撃されやすく、動きが遅くなる。常にすり足で体重移動出来る状態に入ることが、生存に有利であるということだ。

トラウマも精神が居ついた状態である。定住とトラウマが即同じ状態とは言えないけれど、なにはともあれ、居つかないに越したことはない。

居つかない漂泊民のほとんどは近世になって賤として差別を受けることになる。

居つかない民には、霊的能力(芸術的力)があり、その力に恐怖したのだ

それらがまとまって、権力に刃向かわなく制度化したものが、非民、部落民としての差別であった。

漂泊者によって救われる定住民がかつてはいたのだ。

四国遍路を接待する地元の人々、もっと古くは、神としてまろびととして神代からの人々がぼろをまとった乞食に施しをすることによって、自身の供養、罪滅ぼしとなった。

施しは善行であると考える仏教の影響によって、過剰に持っている物は、持っていないものに施さなければ罪が消えないという融通無碍という考えがあった。

定住民は施しをしなければ、心が痛んだのだ。そうしてトラウマを癒すことができた。

施しをすることによって、自身が救われたのである。

 

ここでやっと、良寛さんのことが書ける。

良寛は、古代越八カ国に先住した越蝦夷、近畿政権下で定着農耕に従事せず、中世に山の民、川の民、海の民であった人々の末裔である。

生地出雲崎からは、彼らが作ったと思われる縄文土器が出土していることで判る。

出雲崎にある尼瀬は海人部落として差別を受け、良寛も尼瀬の海人につながる系統であったようだ。一休が天皇の庶子であったことを考えると、両者のへだたりは大きい。自分の背後には古代越八カ国があるという実感を背負っていた良寛と、万世一系の天皇家である。

良寛は詩、歌、書をものしたが、詩、書については、僕ははなはだおぼつかない。

歌については「良寛の歌は人間即歌である。その人その心即歌である。自然随順の生活即その歌の根源である。」と歌人の吉野秀雄が述べる。僕にも、そうだとうなずけるほどには、歌に感じいることが出来る。

良寛は「昼行燈」とあだ名され、論語、荘子など読みふけり、名主の見習いを止め18歳で尼瀬にある曹洞周光照寺に出家した。

その後、備の玉島円通寺に剃髪染衣の身となり、道元禅を実践する。

円通寺の国仙老子の印可の偈によると

「良や愚の如く、道うたた寛し

謄騰任運、誰を得て看しめん

為に附す山形爛籐の杖

到る処壁間、午睡のびやかなり」

師の国仙は、良寛の「愚か」と見えるありかたそのものに、廊然たる道が通じているとみた。その見事な「任運謄謄(とうとう)」ぶり、縁にそって、あらしめらるるがままの「のほほん(騰騰)」とした生き方、彼がみずから「大愚」と号し、無為、無能を自称するのも、師のこの鑑識を彼が肯定していたからだ。と入矢義高は述べる。

円通寺には11年修行し、師亡きあと34歳で諸国行脚のこつじきの旅に出る。

「濱風も心して吹けちはやふる神の社に宿りせし夜は」

廃屋に泊まり、杉木立の中の社に一人寝泊まりした。

「思いきや道の芝草折しきてこよひも同じ仮寝せむとは」

「紀の国の高野のおくの古寺に杉のしずくを聞きあかしつつ」

「山おろしいたくな吹きそ墨染の衣かたしき旅寝せる夜は」

「さ夜あらしいたくな吹きそさらでだに草の庵はさびしきものを」

「ふるさとへ行く人あらば言づてむ今日近江路をわれ越えにきと」

「ささの葉にふるやあられのふるさとの宿にもこよひ月をみるらむ」

「草枕夜毎にかはるやどりにも結ぶはおなじ古里のゆめ」

 

良寛は、数年漂泊した後、郷里出雲崎に帰る。

弟由之の住む生家の前を素通りし、浜続きの郷本まで歩き、塩焼き小屋の廃屋をねぐらとして托鉢した。その頃塩焼き小屋の一つが焼けた。漁師らは良寛の仕業と思い込み生き埋めにしようとした。たまたまそこを通りかかった近郷の医師が助け、「何故弁解しなかったか」と問うた。良寛は、「弁ずるも許されず、弁ぜざるにしかず」と答えたという。「私は火などはなたない。」と言ったところで、疑ったものは聞きいれる訳がない、それなら、言い訳などしない心構えをすれば済む、という。

「20年来郷里に帰る.旧友は死に果てており、何もかも変ってしまった」と詩に書く良寛は、そうして亡くした人を持つ人たちに、たくさんの歌をささげた。

「この里の往き来の人はあまたあれど君死なければさびしかりけり」

「弥彦(いやひこ)のを峰うち越すつづらおり十九や二十を限りとして」

「ますらおや共泣きせじと思えどもけぶり見る時むせかえりつつ」

「かいなでて負ひてひたして乳ふふめて今日は枯野におくるなりけり」

「あずさゆみ春は春ともおもほえずすぎにし子らがことを思えば」

「人の子の遊ぶをみればにはたずみ流るる涙とどめかねつも」

「もの思ひすべなき時はうち出でて古野に生ふるなずなをぞ摘む」

「ますかがみ手にとり持ちて今日の日もながめ暮しつ影と姿と」

「いつまでか何歎くらむなげけどもつきせぬものを心まどひに」

「子を思ひ思う心のままならばその子に何の罪をおほせむ」

「あらたまの年はふれども面影のなほ目の前に見ゆる心か」

「世の中に玉も黄金も何かせむ一人ある子にわかれる身は」

「なげけどもかひなきものを懲りもせでまたも涙のせき来るはなぞ」

「花見てもいとど心は慰まずすぎにし子らがことを思いて」

「煙だに天つみ空に消えはてて面影のみぞ形見ならまし」

亡き子にささげる歌には「子供をみまかりたる親の心の代わりにてよめる」と、詞書がある。

 

良寛は、この地で乞食宣言を書く。

「食を受くるは仏家の命脈なり、それ仏家の家風は乞食をもって活計をなし、行鉢を恒規となす。これらは皆受食の法にして調身のかなめなり。・・・」食べ物を無心することに、ためらいのない姿は、日常的であったのだ。

五合庵に定住するには、これから十年先である。それまでは、出雲崎のそと、寺泊から、国上山にいたる、あちこちの空庵を転々としていた。

良寛は、男にも、女にも、大人にも、子供にもどんな職業の者とも、分け隔てなく、一切無差別に接した。

もはや美も醜も、善も悪も、真も偽も、差別がなく、ただ目の前のあるがままの万象を肯定し、同時にあるがままの一物一体を理解し尊重し、しみじみと湧きだす愛をもって包み了せようとする自然柔順の態度をこそ、彼のこひねがうぎりぎりの生き方であると思い至った。と、研究者は書く。

「ひさかたの雲居をわたる雁がねも羽白妙に雪や降るらむ」

「雪どけに御坂を越さば心してたどり越してよその山坂を」

「わが宿の軒端に春のたちしより心は野べにありにけるかな」

「うぐひすの初音は今日とわがいえば君はきのうといふぞくやしき」

「あしひきのこの山里の夕月夜ほのかに見るは梅の花かも」

「鶯の声を聞きつるあしたより春の心になりにけるかな」

「ひさかたの雨の晴れ間に出でてみれば青みわたりぬ四方の山々」

「深見草今を盛りに咲きにけり手折るるも惜しし手折らぬも惜し」

「時鳥いたくな鳴きそさらでだに草の庵はさびしきものを」

「さびしさに草のいほりを出でてみれば稲葉おしなみ秋風ぞ吹く」

「越に来てまだ越なれぬわれなれやうたて寒さの肌にせちなる」

「日は暮れて浜辺をゆけば千鳥鳴くどうとは知らず心細さよ」

良寛の若き道友であった大忍魯仙は「良寛老禅師、愚の如く痴の如し、心身すべて脱落、何物か又疑うべけん。名利の境に住まず、是非の岐に遊ばず。朝には何処に向かって往き、夕べには何処に向かってか帰る。かの世人の誉むるに任せ、かの世人の歎くに任す。・・・」と、「良寛道人を憶う」に詩一遍がある。良寛はどこへ行くかを知らなかったし、どこからきたかも知らなかった。明日をもたなかったし、明日をも知らなかった。と言う。

「浮雲のいづくを宿とさだめねば風のまにまに日をおくりつつ」

「うき雲のまつこともなき身にしあれば風の心に任すべらなり」

 

真言宗の古刹国上寺(こくじょうじ)は、弥彦山の南、国上(くがみ)山中にある。寺から二百メートル離れ、麓からは杉の巨木に挟まれた急坂を登り、山中に孤立した中腹に五合庵がある。良寛はよほどこの地が気に入ったのか、断続的に五年、定住して十年ここに暮らした。

「いざここに我身は老いんあしびきの国上の山の松の下庵」

「沓なくて里へも出でずなりにけりおぼしめしませ山住みの身を」

「柴の戸の冬の夕べのさびしさをうき世の人にいかで語らん」

「岩がねをしたたる水を命にて今年の冬もしのぎつるかも」

「今よりはいくつ寝ればか春は来ん月日よみつつ待たぬ日はなし」

「なにとなくこころさやぎていねられずあしたは春のはじめと思えば」

「世の中にまじらぬとにはあらむどもひとり遊びぞ我はまされる」

「あしひきの岩間をつたふ苔水のかすかにわれはすみわたるかも」

「こひしくばたづねて来ませわが宿は越の山もとたどりたどりに」

「あはれさはいつはあれども葛の葉の裏吹き返す秋の風」

「山住みのあはれを誰に語らましまれにも人の来ても訪はねば」

「いまよりは往き来の人も絶えぬべし日に日に雪の降るばかりして」

「ひさかたの雪踏みわけて来ませ君柴のいほりにひと夜語らむ」

「なきあとの形見ともがな春は花夏ほととぎす秋はもみじは」

「今更に死なば死なめと思へども心にそはぬいのちなりけり」

「かにかくにかはらぬものは涙なり人の見る目をしのぶばかりに」

良寛はみずからを多病僧とよぶほど病に独り苦しんだ。

楽しみは、麓で良寛を待つ子供たちのあそび戯れる嬉々とした顔であった。

「子どもらと手たずさわりて春の野に若菜をつめばたぬしくあるかな」

「かすみ立つ長き春日を子供らと手まりつきつつ此の日くらし」

「この宮の森の木したに子供らとあそぶ春日になりにけらしも」

「この里に手まりつきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし」

「あずさゆみ春の山べに子供らとつみしかたこを食べばいかがあらむ」

「冬ごもり春さるくれば飯乞ふと草のいほりを立ち出でて」

「里にい行けばたまほこの道のちまたに子どもらが今を春べと」

「手まりつくひふみよいむな汝がつけば吾はうたひあがつけば
 なはうたひつきてうたひて霞立つ長き春日を暮らしつるかも」

「いざ子ども山べに行かん菫見に明日さえ散らば如何にとかせん」

良寛は、「児童は余を驚かすを以て楽しみと為す者也、余は児童の楽しむ所以を以て楽しみと為す。児童楽しみ、余もまた楽しむ。一挙両楽なり。以て常と為す。真の楽しみのこれより大なるはなし。」と、詩につづる。

 

良寛の伝記に、弟の由子の妻から、「長男が放蕩をして困るので、良寛さん何か言ってやってください」と頼まれる。良寛が三泊して帰る折になって、やっと、せがれの名を呼び「帰るから草鞋をはかせておくれ」と言った。長男が、かがんで草履を履かせていると、背中に冷たいものが当たる。顔をあげて良寛を見ると、涙があふれていた。

良寛は、だれにも説教はしなかったが、自分への戒語はたくさん作っていた。

彼らを不憫だと思っただろうし、可哀そうに思えただろう。母の気持ちも考えただろうし、弟,由子に何か言ってやりたかっただろう。だが、何も言わなかった。「おとうさん、おかあさんが心配してるよ、」と言ったところで何に成る。生活の心情を変えなさい.また。禅寺で修業しなさい。というその言葉が、いきわたるだろうか?

また「師、余が家に信宿日を重ぬ、上下自ら和睦し、和気家に充ち、帰り去ると云えども、数日の内、人自ら和す、師と語ること一夕すれば、胸襟清きことを覚ゆ、師さらに内外の経文を説き善をすすむるにもあらず。或いは厨下につきて火を焚き、或いは正堂に座禅す。その話詩文にわたらず、道義におよばず、ゆうゆうとして名状すべきことなし、ただ道徳の人を化するのみ。」と伝える。

良寛には自らを戒める言葉が、100近くあった。それには、

一、  学者めきたるはなし、

二、  さとりくさきはなし

三、  風雅めきたる

四、  唐ことばを好みてつかう

五、  都ことばなど覚えてしたりがほにいう

六、  いなかものの江戸ことば

七、  人をうやまい過ぎる

八、  へつらう

九、  詩人の詩

十、  書家の書

十一、      料理人の料理

十二、      公事のはなし

 

五合庵を病の身で過ごす良寛は、麓に移り国上山中乙子神社に十年宿す。

国上山は上古には「越(こし)の山」と呼ばれ、越の蝦夷の地であった。平地は湿地帯で、稲穂の民は定住せず。その地を、山の民、川の民、海の民が治めて、農耕地とした。

親鸞が布教を開始し始めたのも、これらの太子と呼ばれる輩であった。金堀り、鋳物師、木地師、そま人、塗師、桧物師、紺掻き、仏像・堂塔の民たちを、「タイシ」と賤称したのだ。

酒呑童子はこの地で生まれ、近江伊吹山を経て大江山に至り、農作物を略奪し、婦女をさらって食ったと言われる。その為農民から鬼と呼ばれて恐れられた。「タイシ」の怨念が酒天童子となったのであろうか?大和の民は、縄文顔を鬼としたのだ。

佐渡流罪になった日蓮は、自らを海人が子、東夷(あずまえびす)、賤民の子と言った。

良寛は日蓮の唱える法華経から、「常に軽蔑された者」という常不軽菩薩を讃嘆する。常不軽菩薩は、「われ深く汝らをうやまう。敢えて軽しめあなどらず。所以は何かん。汝らは皆菩薩の道を行じて、まさに仏となることを得べければなり」とただ人々を礼拝してまわる。人々は怒って彼を打ったが、遠くに逃げ去って、大声で「われ汝らを軽しめず、汝らは皆まさに仏となるひとである」と叫んだ。

この人間信頼と人間礼拝が良寛に衝撃をあたえた。すべての人々に仏性があり、仏になることが出来ると説く「一切衆生悉有仏性」が良寛そのものとなった。

「法のちりにけがれぬ人はありと聞けどまさ目に一目見しことあらず」

「知る知らぬいざなひたまえ御仏の法の蓮の花のうてなに」

「比丘(僧)はただ万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりけり」

「朝に礼拝を行じ、暮れにも礼拝、ただ礼拝を行じて、この身を送る。南無帰命常不軽、天上天下ただ一人」

良寛は、「あなたは、仏となる人ですよ」と皆に告げた菩薩を感じて、すべての人の平安を願ったのだ。

 

良寛は、山をくだり、島崎能登屋木村家に住まう。

五合庵を想って詩する。

「漸く人間に下る咨嗟するをやめよ

万事みなこれ因縁による

他日もし機の成熟するに遇わば

再び来らん

国上の古道場」

又、籠に飼ひし鳥をみてよめる

「あしびきの山の茂みを恋つらし我も昔の思ほゆらくに」

漂泊の自由と矜持を失ったじぶん自身を歌った。

波間を漂う繋がれざる船、不繋舟とおのれを呼ぶ良寛は、国上山も船着き場、停泊地であったと思わざるを得なかった。と、「漂泊の人良寛」を著した北川省一は言う。

 

この頃良寛は、歩けば書を所望され、偽物の書も出回るほど引っ張り凧であった。

ことわって逃げ出そうとする良寛にあの手この手で引き止めようとするファンの逸話は、はなはだ多い.雨宿りにとびこんだ家では、この機会を逃すまじと、執筆をたのまれる。

「雨の降る日はあはれなり良寛坊」

この遺墨が多いのはそのためである。皆にせがまれて、仕様がなくしたためたのだ。

 

貞心尼は、良寛に師事したいと、推敲した和歌一首とお手製の手まりとを持って能登家を訪れる。貞心尼三〇歳良寛七〇歳である。

貞心尼、師つねに手まりをもて遊び給ふとききて承るとて

「これぞこのほとけのみちにあそびつつつくやつくせぬみのりなるらむ」

良寛、御かへし

「つきて見よひふみよいむなやここのとを十とをさめてまたはじまるを」

貞心尼はじめてあひ見たてまつりて

「きみにかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおもう」

良寛御かへし

「ゆめの世にかつまどろびてゆめをまたかたるもゆめもそれがまにまに」

「またもこよしばのいほりをいとはずばすすきをばなのつゆをわけわけ」

貞心尼は初めて良寛に会った一夜を、その後良寛歌集として『はちすの露』に編む。

その序に「こは師のおほむ形見とかたはらにおき、朝ゆふにとりて見つつ、こし方しのぶよすがにもとてなむ」と、五年にわたる師弟の歌を残し、貞心尼、明治五年の死地柏崎で歌集を発見され、良寛の島崎での最晩年の思い出深い記憶となった。

「さすたけの君がおくりしにひまりをつきてかぞえてこの日くらしつ」

「あしひきの山の椎柴折り焼きて君と語らむ大和言の葉」

「いかにせん牛にあせすとおもひしも恋のおもにを今はつみけり」

「君や忘る道やかくるるこの頃は待てど暮らせど音づれもなき」

「心さへ変らざりせばはふつたのたえずむかはむ千代も八千代も」

「いついつと待ちにし人は来りけり今はあい見て何かおもはむ」

「あきはぎのはなさくころは来てみませいのちまたくばともにかざさむ」

「いざさらばわれはかへらむきみはここにいやすくいねよはやあすにせむ」

「うたやよまむてまりやつかむ野にやでむここころひとつをさだめかねつも」

その後良寛の容態は悪化し、下痢が止まなくなる。

「ぬばたまのよるはすがらにくそ(糞)まりあかしあからひくひるはかはや(厠)にはしりあへなく」

「言に出でていへばやすけりくだりはらまことその身はいやたへがたし」

「しほのりの山のあなたに君おきてひとりしぬればいけりともなし」

来年の春に会いたいと。

「あずさゆみはるになりなばくさのいほをとくでてきませあひたきものを」

貞心尼「かくて師走の末つかた、にわかにおもらせ給うよし、人のもとより知らせたりければ、打ち驚きていそぎもうで見奉るに、さのみなやましき御気しきにもあらず、床のうへに座しいたまへるが、おのが来りしをうれしとやおもほしけむ」

良寛

「いついつと待ちにし人は来たりけり今はあい見て何かおもはむ」

「むさし野の草葉の露のながらひてながらひはつるみにしあらねば」

貞心尼・・かかればひるよる御かたわらに有りて、御ありさま見奉りぬるに、ただ日にそへてよわりによはりゆき給ひぬれば、いかんせん、とてもかくても遠からずかくれさせ給ふらめと思ふに、いとかなしくて

「いきしにのさかひはなれてすむみにもさらぬわかれのあるぞかなしき」

良寛・・・御かへし

「うらを見せおもてを見せてちるもみじ」

 

良寛末期の一句である。

良寛の歌う和歌を口ずさむと、この僕の近所で、紅葉葉を愛でている良寛が、佇んでいる。積もる白雪に凍える姿が見えてくる。袖を涙に濡らしてとぼとぼあるく良寛がいる。

こうして味わうことで、作者が立ち現われる芸術に音楽がある。

すべての芸術は音楽にあこがれるというが、良寛の歌は、音楽を聞くと作曲者が現れると同じように、行き来する良寛が現前する。

良寛の歌は、そうして姿を現し、良寛がそこで佇んでいる。

良寛は空海以下ただこの人あるのみといわれ、唐木順三は、「良寛にはどこか日本人の原型のようなところ、最後はあそこだといふやうなところがある。・・最も日本人らしい日本人ではないか」と言う。

縄文土器をつくった原日本人としての寡黙な縄文人が、大愚良寛としてよみがえった。と、良寛研究者が語ることに深くうなずくことができる。

 

近藤蔵人

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