2016年5月17日火曜日

のほほんと暮らすよろこび君にあれ


のほほんと暮らすよろこび君にあれ

 

だれも信じてくれないのだけれど、米国スタンフォード大学のクラブツリー教授の研究によれば、2000年から6000年前の人類の知性と感情的能力がピークで、その後退化し続けていると遺伝工学にもとづく研究報告があります。

その当時の脳の容積が最大で、徐々に少なくなっているそうです。

教授は理由をこう書いている。

「人類の知性の形成には2000から5000という多数の遺伝子が関係し、それらは突然変異により、働きが低下する危険にさらされている。狩猟社会では、知的・感情的な能力のある人間しか生き残れなかったが、歴史の中で農業や都市が発明され、命が脅かされるリスクが減った。これにより、遺伝子の突然変異で知能の低くなった人間が自然淘汰されることが少なくなった。その結果、人類の進化としての脳の拡大が止まり、知能が低下し続けている」のだという。

コンピューターも発明し、巨大建築も建造し、宇宙空間に人工物を泳がすこともできる人類が、知性の退化とは信じられないと大多数の人は怪訝に思うようだ。だが、東北地震の惨状や、熊本地震の人々のことを考えると、自力で生きることは不可能だったのではないだろうか?自己努力で自然食料の調達は出来ない、住まいも作ることがない。子供たちや老人をいかに助けるか?雨風をどう防ぐか?水をどう調達するか?依存して生きることができても、自力で生きる力は、やはり弱っていると思わざるを得ない。僕自身がそういう訓練になじまなかった。便利だし、清潔だし安全だと思っていたものが一瞬で消える。それは、歴史を振り返ると何度も繰り返されていることだ。津波も地震も噴火も自然現象で異常な現象ではない。その時に生きる力があるかどうかということなのだろう。

人は生きる時、頭脳を明晰にしていればいいと考える。だが、行動の大部分は、遺伝情報や育ちや思い込みなどの無意識によって行動している。その上気配を感じ殺気を感じる身体情報である準静電界の感受性がある。それらがまとまって方向を決めているのだと思う。無辺の闇の中の方丈しかないと言う小林秀雄が言う理性は,窮地に立った時、それほど役に立たない。現代人は理性だけによりかかり,その無辺の闇の行動原理には気が付かない。先の準静電界は他にも記載したが、サメやエイが地底に潜ったカレイやヒラメなどを捕食する時の能力だが、時にはその感受性を保持している人もいるが(殺気や気配として)人類にあって今では衰えたと研究がある。それらのことが必要でなくなったということもあるが、クラブトリー教授が言う感じることの退化ということだと考える。

歴史家の内藤湖南が、「今日の日本を知るためには・・・・古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じくらいにしか感じられませね」と言っている。これは現代の知識人の平均的な考えだと思う。だが、僕はそれではすまないと思う。ホモサピエンス以前と以後の何十万年のそれほど変化しない霊長類の時代の記憶。定住革命を起こす前後の石器時代、縄文時代、弥生時代、もっとさかのぼって電気的に生成された細胞の歴史から想像しなくてはならないと思う。岡潔が、過去の積み重ねが情緒となり、情緒の積み重ねが自分になると書くとき、万世一系に続いている細胞から36億年後の今までの記憶の蓄積。そのため、自己とはと考えると生命が誕生した時までさかのぼりたくなる。・・・まぎれもなく僕は知的欲求だけ強い、脳内人間ですね。

僕たちは、退化により自力で生活する事が出来なくなった。社会を形成して、その社会が、僕たちのより所とならなくては生きていけない。そのためには、社会の親密さが必要になる。助け合って生きていかなければならない。

先日作家の高橋源一郎が、新聞の人生相談で(これがすこぶる面白い、彼の知性には驚かされる)それには、母親からの相談で、長女と次女がいて、長女には子供がいるので敷地内に新築して同居しようと思っていたら、次女が「お姉ちゃんばかり優遇して不公平だ」と同居に反対して、音信不通になった。母親は私の育て方に問題があったのでしょうか?と質問している。高橋先生は、親であるあなたが100%悪いですねと書いても、何が悪いかお分かりにならないでしょうねと言い。親の仕事は、子供を最後には自立させることです。つまり、親から子供を離れさせることです。そこまでやって、親の仕事は完了です。あなたたちは、それを放棄しています。だから娘さんは親の庇護を受けるのが当然だと思っている子供のままです。それは、あなたもまた親になることができなかった、子供のままだからです。このままなら、お孫さんも同じ道を歩まれることになるかもしれません。子供たちを自立させることに耐えられないのは、あなた自身かもしれません。と解答している。100%親が悪いと断言する高橋源一郎の、彼の生き方が言わせるのだろう。これは人類だけでなく、猫にもみられる。普通、猫は親に育てられ、時期が来ると親から離れていくが、ペットとなった猫は、子供のまま飼い主に甘えたほうが得策と考え、子供のままで自立しない。自立しないで、親がいなくなったときどうするのだと思う。猫は本能が強いだろうから適応するかもしれないが、人間では、心理障害を抱えた親も子も、頼る親や子がいなくなったとき、自力で生活することがはなはだ苦しいことになるだろう。

僕の友人に、長男のガンをハンドパワーと食物でなおし、そののち勉強して按摩さんの免許を取得して、治療家になった女性がいる。今では、大病院の集中治療室まで、患者さんに呼ばれて付き添うことがたびたびあるそうだ。患者さんが怖がっていると「怖くないよ、向こうにはあなたが好きだった誰それがいるから、待っているわよ」と声掛けするそうだ。時々ご主人と山に遊びに来るが、彼女に一度だけ治療してもらったことがある。上半身裸になり、揉むでなくさするでない、力が入っていない手で背骨の回り、腰、首筋を触診と治療にあたった。その日は、普段と変わらない状態だったが、一夜過ごすと、上半身が揉み起こしで彼女に電話をかけて痛さを相談するほどだった。強く押すわけでもないのに痛みが出るのだから、治療能力と集中力には驚かされる。その時、彼女が触診して「あれ、怒りがたまってる。あなたでも抑制しているのね」と言った。それは、僕も自覚しているから「そんなことまでわかるの」と返事するだけだった。僕は怒りや、鬱積した気分を自然だけに囲まれた魚釣りで解消していると思っている。脳内の活動が停滞してきたり、気分が怒りに負けている状態を、一心不乱に何時間も魚釣りすることで、脳内の使用する回路を変更することで収まると実践してきた。魚釣りは、ストレスの解消だけでなく、血沸き肉躍る楽しみもある。ほとんど、ストレスのことなど考えず楽しみで行くのだけれど。しかし、武道家でもある内田樹は、攻撃性の絶対量は変化しないとのべる。抑制した怒りのタガが外れるから攻撃する。それは八つ当たりをしないからだと言う。攻撃を一か所から、8分割、16分割してやる。昔の人はそうしてやり過ごしてきたと言う。内田先生はさらに「だから、暴力性はできるだけこまめに、多方面に向けて発動したほうがいい。傷つくときは素直に傷つき、怒るときは素直に怒る、恨むときは素直に恨むと回りにも自分にも害が少ない。耐えるのは身体に悪い。現代人は小出しに処理して、被害を最小化する技術や知恵がない。すべての人間には暴力性があり、攻撃性があり、意味もなくものを破壊したり、人を傷つけたいと思うことがあるということを事実として認めない。性善説はある種危険な説だと思う。自分の中に他人を抑圧したり、支配したりする欲望があることを認めないと、善意に基づいて人を傷つける。だから、いい人がふるう暴力は節度がなく、信仰心が篤い人ほど残虐になるという歴史的経験がある・・・」と述べている。読み終えた僕は善意の人を演じていたと理解した。喜怒哀楽の素直な表現ができなかった。はなはだ不可能とも思える気持ちの切り替えが必要になる。しかし、そうすれば、もう少し楽になれるかもしれないと思える。魚釣りから帰ると快活になり機嫌がよくなるが、浄化効果の期間は1か月持つかどうかと言う所だ。女性が強靭だと思うのは、彼女たちの素直な感情表現だとわかる。女性は相手の気持ちは後回しで、怒りをぶつけることができる。思ったことは、相手の感情がいかようになろうとも発語できる。どうして、もう少し考えて話さないかなーとこちらは考えるが、彼女たちの行動が正解だったのだ。だから、いつでも、快活で笑顔が絶えない。女性は少女のころ、慎みと恥じらいを演じ、男性はそれに惹かれ,結婚すると一変して女となる。人類はこの点男性より女性が有利に創造されている。ジャワの神話は(披露宴にてに記載)、女が一緒に住み始めると、「のべつまくなくしゃべり続け、事あるごとに文句を言う」と男の悩みを伝えるが、男も少しは会話に入り、時には文句を言えばいいと教えているのかもしれない。

感情的能力とクラブツリー教授が言う能力とは、相手を思いやるだけでなく、自分の感情も埋もれさせるだけでなく発露を探すべきだというのかもしれない。狩猟採集社会では、子に伝える知識と技術、仲間とのコミュニケーション能力、自分で考える能力、時至れば背中を押してでも、自立させなければ集団は維持できない。

熊本の地震の数日後、熊日新聞に寄稿された熊本在住の「逝きし世の面影」の著者、渡辺京二先生は、人間は戦火や災害や飢饉に追われて流浪するのがむしろ常態であって、安穏な日常は仮の姿なのだと思い込んでいる。と書いている。また、十代の敗戦の時、大人にとっての苦労は、少年の私には心躍る冒険だった。3.11の大災害の時の大手新聞への寄稿には、メディアの論調が不思議でならず、人類は地獄の釜の淵の上で生きてきたのだし、幾度もの大変な苦難を経てなお、生きてきたのだと書いた。ほとんどのメディアが、災害にパニックになっているところ、渡辺先生はよくあることだよと寄稿したのだから、僕もあれ?と読んだ覚えがある。先生は大連で敗戦を迎え、食うものもついに高粱だけになり、零下十数度の中、暖房なしで乗り切った少年の経験があったのだ。自分たちの文明がいかにもろい基盤の上にあるか自覚し、今日の複雑化し重量化した文明を、どうやってもっと災害に強いばかりでなく、人間に親和的な文明に転嫁するか考えてみる機会を与えられたのだ、という。震災後、熊大の学生たちは、この地震でかえって活気づいて笑いながら歩いている。JRに乗り合わせた客たちは重い荷物を背負っているのに、席を譲り合って座ろうとしない。コンビニで買い物すると、店員が話しかけてくる。渡辺先生自身気づいてみると、街ですれ違う人に、大変だったでしょうと自然に声が出る。先生は「逝きし世の面影」で描いたあのひとなつこい日本人、人情あふれる日本人が帰ってきたと書いている。自閉していた心が開かれ、瓦礫の中からかくありたい未来の人間像が、むっくり立ち上がったようにさえ見える。個として自立していながらいつでも他者に心が開ける人間・・・・・。先生は、石牟礼道子と水俣闘争に立ち会った経験から、国も会社も、人びとを優先して考えることができないと身に染みている。熊日新聞は、渡辺先生が書かれたこの記事を全国に流すかと思っていたがそうはせず、ちょっと泣きそうと感じた読者が、ツイッター上に半分ほどコピーしているだけなので、全文が読めない。数年前かくいう僕は、自著を勝手に贈呈したら「心洗われる絵に文章です」と手書きのはがきをいただいた。書いてよかったと先生に感謝している。地震の後、熊本に住む石牟礼道子氏と共存している先生の安否を心配していたが、現在二人とも高齢で85才ではないかと思うが「荒野に泉湧く」と言うタイトルの寄稿を発見して安堵した。先生は、災いを福に転じるとはこのことだとも書いている。どのようなことがあっても、人は生き続けなければならない。それなら,不機嫌で無表情に生きるのでなく、人なつこい、人情あふれる日本人が封建時代の江戸末期から混乱した明治にかけてあったのだから、戦火にさいなまれ、大災害に会おうとも、のほほんと生きることは無理ではないと思う。

そろそろ「のほほんと暮らすよろこび君にあれ」のタイトルの意味が問われる頃だと案じますが、あと少しの文章で到達できるだろうと思いますので、少し反転した内容ですが、もう少し読んでみてください。

一世をふうびしたビージーズのブライアン・ウイルソンの映画を見た。彼はポピュラー界の天才と位置付けられている。映画の最初に「僕の中に二人の人格がある。その一人がいなくなったら、僕は音楽を創造することができないだろう」とつぶやいている。天才は、自己意識で作品をつくるのではなく、何者かが乗り移ったり、降りてきてそのものが創造して作品になると知っている。そのものは、努力して作るものではなく、宿ったり、移ったり消えてしまったりするので、ある日突然音楽が作れなくなる。ブライアンは音の断片はあるが、まとまらないと苦しむ。あげくに、お酒に明け暮れ、ドラッグに染まり、ついには廃人として過去の栄光だけ残して消えていくことになる人が多い中、ブライアンはドラッグから立ち直り、苦しい自己を凝縮した歌詞の歌をつくり、今コンサート活動を続けている。映画の題名は「ラブ・アンド・マーシー」愛と慈悲と付けられている。彼は、立ち直ったが、廃人になった音楽家は数え切れないほどいる。あまりの才能で休まず作り続けてモーツアルトのように若死にする人もいる。ギャンブラーと言う人種も予知能力に優れて賭け事の才能に恵まれている、だが、ほとんどのギャンブラーは、才能が枯れて自滅し挙句に家屋敷までなくすることになる。社会は才能ある人材を求めて、人々も自分に才能が有ればと願う。しかし、実情は、上記のようにはかないものだ。技術を磨き、努力を重ね修行を重ねて得た力は、自滅することは少ない。技術者が、死ぬまで勉強ですと言うことは、彼らには安定した技術が備わっているからだろう。こつこつと励んだ技術が永らえる。彼らのようにずば抜けた才能ではなくとも、才能はすべての人に潜在してある。ある知り合いの夫人が、実家の旅館の存続のために一人家業を継ぐと決意した。家庭に収まっていたことを考えると、朝早く起き、夜は遅い。頼れるものは自分の体だけと言う状態で、毎日休むことなく働き続けた。彼女にはこの知らない才能があったのだ。その才能のため、頭痛と肩こり筋肉痛がやむことなく彼女を苦しめた。のほほんと生活する事ができれば、そういう状態にならなかっただろうが、頭脳が余裕を与えない緊縛した才能として開花してしまったゆえであると思われる。才能は、使わないほうがいい場合がある。また保存してあることだけ認識するのがいいかもしれない。夫人は、自己の才能であるお客あしらい、忙しいときの対応の仕方、金銭感覚を一人で30年来続けてきた。そうして、家業は繁盛したが、精神的にも、肉体的にも疲労が蓄積している。老齢を迎えて自分に合った仕事量を選び、才能の浪費を抑える生き方に定着しそうで安心した。しかし、どんな状態でも、人はのほほんと生きる生き方があるのだと思う。才能によって身を持ち崩すことになるのだから。

生きている間に使えないほどの富を得たマイクロソフトの創業者ビル・ゲイツ氏は、そのお金を基金として寄付やボランティアに使っている。お金持ちの鏡と言われる。それらを見ていたリナックスの創業者ヘルシンキ大学のリーナス・トーパルズは、莫大な利潤を産む機会を捨て、開発したコンピューター・オペレーションシステムを無料にした。ゲイツに並ぶ裕福な暮らしが保証されていても、ゲイツのようにその利潤を贈与に使うのなら、初めから贈与にしたほうが良いと考えたのだ。ニコラス・センストロム、ヤヌス・フリスが開発したスカイプも無料。オーストラリアからは脱利潤型の社会正義の追及のジュリアン・アサジュのウイキリークス。英国のラリー・サンガートとジミー・ウエルズが開発したウイキペディア、彼らは友人と楽しみながら遊びで製作した。贈与することが目標で、莫大な利潤のために開発することはなかった。彼らは毎日の生活ができればいいのだろう。富と名誉では幸せになれない、と行動する世代が現れたのだ。幸せは富と名誉の中からは得られないとハーバード大学の75年間にわたった研究結果がある。量より質の人間関係が、最も幸せを感じて、健康にも優位に働くという研究成果だ。何事も話せて、息の合った友人がいればいいということだ。他者との親密な関係が最も楽しいとは、誰でも納得のいくことだ。例えば、数億の資金を持ち、人を動かすとき札束を切るが、人には毛嫌いされて常に一人。片や、食うや食わずの生活でも、友人が遊びに来て一日談笑している。そういうイメージだろうか。研究者の成果として科学で証明された。そのためには、友人の「問題を発見しない」友人の「問題を解決しようとしない」ことが大切になってくる。友人の問題を考えて悩み、解決しようとして仲たがいをする。相手のそのままで満足しなければならない。のほほんと付き合っていればいいのだろう。

あとは、死の困難な問題がある。

京都大学医学部を出、病院長を経て60才より老人ホームの付属診療所の所長をされている中村仁一医師は、「どうせ死ぬならガンがいい」「死ぬのはガンに限る。ただし治療をしないで」と書いている。ガン死のお迎えは最高ですよ、人生の幕引きを、思い通りにできるかもしれない。ガンは、たいていは最後まで意識がはっきりしているから、ゆっくり身辺整理ができるし、親しい人にお礼とお別れが言える。ガンを恐れるのは、痛みが強調されすぎて、傷まなかった人たちが表に出てこなかったから、がんは傷むと思い込まされたという。・・・3.11以後、いろいろな人が今のままではいけない、何とかしなければいけないと思った。のちに考えると、何とかしなければというのは、日本は、技術立国ではなくなり、頼りにならない人たちが動かしていると理解したからだ。これは、任せるのでなく自分で考えなければと、そう思ったから、何とかしなければいけないと考えたのだ。それは、医療の世界でも同じだ。医は仁と言ったが、利潤追求の会社と同じになっている。中村医師は抗がん剤治療は、副作用と縮命効果しかないと断言する。一割のガンには有効でもそのほかのガンでは、抗がん剤では治らないと言う。老人ホームで,ガンを治療しないで置くと、実に穏やかに死んでいく自然死という体験を重ねた。抗がん剤は毒性が強く、正常細胞のほうが分裂スピードが早く、死滅するのは正常細胞で、がん細胞が抗がん剤でやられても、一個でも生き残れば再び分裂して、がん細胞がはるかに生き延びやすい。抗がん剤治療は,効けば効くほど、患者はガンと戦う力も、正常な機能もダウンさせて、結局は命が短くなる。不必要な手術をしたり、抗がん剤治療をするから、苦しいし悲惨な死になってしまう。「自然死というのは、何も口に入らなくなり、だんだん意識が薄れていき、だいたい7日か10日後に亡くなります。自然死はいわゆる餓死なんですが、それがとても穏やかな死に方です。飢餓状態では脳内にモルヒネ様物質が分泌されていい気持になり、脱水によって血液が濃く煮詰まることで、意識レベルが下がって、ぼんやりとした状態になる。さらに息づかいが悪くなって酸欠状態になると、これも脳内モルヒネ様物質が分泌されると言われています。また、炭酸ガスもたまりますが、これには麻酔作用があります。つまり「死」とは、心地いいまどろみの中の、この世からあの世への移行なんです。本来そういう自然の仕組みが備わっているのです」と、中村医師は老人ホームで看取った経験をはなしている。中村医師は、のど元の卵大のしこりを、良性なら何ともないし、悪性なら治療の意味がないので、どっちでもいいんですと、治療を受けない。人生の最後に、まわりの人間に「もうじき先に逝くと思うけど、みんなに会えてうれしかったよ、ありがとう」と感謝を伝えることができるし、目をつぶる瞬間に「俺の人生いろいろあったけど、それほど悪くなかった」と死ねたら、最高でしようと言う。

時に、将来の不安を優先する人がいる。今現在普通でも、将来が不安でたまらない。これは、不安な状態を将来を思考しているので安心と思っているということだろう。彼ら、彼女らは、未来を考えているのだから、のほほんとしている者を何もしないとののしることになる。経済状態が悪循環となり、嘆き、落ち込み、ついには叫ぶことがある、その後好転して、順調になると少し状態が落ち着く。では、嘆いた状態の時、食するに困ることがあったかと言うとそうではない。ただ不安であっただけだ。その不安をまき散らしていた時は、何だったのか?集団全員に不安を押し付けた、その時間は必要だったのだろうか?うつに落とし込むほどのその時間は、不必要な無駄な時間だ。社会経済は普遍的なものでない。零落することもあり、富裕を得ることもある。それは、個人が誠実に生業を果たしても、毎日の姿勢を超えている。闇の世界に生きている覚悟が、人には必要だ。戦火の時、大災害の時は、個人の領域を超えて動いている。それでも、将来の不安を超えて「のほほんと暮らす喜び」を作りたい。

のほほんと暮らす喜びきみにあれ。

28年5月17日近藤蔵人

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