2017年2月22日水曜日

気持ちと気分


今年は、4回も山に雪が積もり、景色のうつくしさに、寒さも忘れて見入っています。どうしてこうも美しく,また感動するのだろうと考えますが、理由はわかりません。良寛さんの雪の句を読んでみましたが、透徹した感覚が立ち上がってくるだけで、ああ、美しいなーと感慨している風でもないのです。そうこう考えているうちに、気持ちについてヒントが出てきました。そのことを書いてみます。

 ひとのこころの成り立ちが、三層に分類できると思ったのです。

 こころの 最も深いところに、「気」と呼んでいいものがあり。
その上に、「気持ち」という言葉に近いものがあり、
毎日は、「気分」で生きていると思われる。
「気」「気持ち」「気分」とわけられる言葉の含みを以下に書いてみます。
     

真ん中には、「気持ち」がある。
気持ちがいい、気持ちがわるい、気持ちが通じると使う「気持ち」のことだ。
     人の気持ちがわかる。
     海や山を見ていると気持ちがいい。
     悲惨な場にいると、気持ちがわるい。
     この気持ちは、人類共通の感じ方だ。
音楽が、表しているものもこの気持ちだ。だから、誰にでも、どこでも、いつでも、音楽はこころが通じる。ほかの芸術では、気持ちだけを表現するものはすくない。すべての芸術は音楽の状態をめざすといわれる。その「気もち」表現が純粋だからなのだろう。

気持ちは、気配も感じることができる。
景色や芸術に、うつくしいなーと感動する気持ちもある。
森に入った時感じる生命感や、海を見た時のなつかしさは気持ちが感じる領域だ。それとも、もっと深いかも。
泣くのを我慢している人を見て、また大粒の涙を流している人を見て、同時に、目が潤んでくることも、気持ちが感じている。
たき火に焼かれて幹が黒ずんで、枝も折られて曲がった木を見て、苦しいだろうなと感じるのも気持ちだと思う。
そういう意味の「気持ち」と受け取ってもらえればいいと思う。

その気持ちがこころの真ん中にあって、
嫌なことを言われたら「うるさい!」と思ったり、落ち込んでしんみりしたり、欲情とか損得とかにまぎれているのは、「気分」のなせる執着だ。
しかし、この領域で、生活のほとんどをこなしているので、ないほうがいいとも言えないし、なくなることもない。
他人が、気になってしようがなかったり、自分が感じることにこだわったり、僕たちの、常日頃の感情は、ほとんど気分で感じている。ひとが持つ癖やトラウマも、気分の領域だろうと思う。
そのせいで、平常心でいられない。
気持ちは、普遍的なものだが、気分は地域、時代、人種によって変わってくる。前に書いた、アメリカでは夫婦仲が良くなければいけないが、日本では悪くて当たり前と気分に表される。

良寛が、人の目を見て話してはいけないが、人の顔色は見なくてはならないという時、
目を見て感じることが気分で、顔色は気持ちで感じている。
今日はつらそうだなとか、今日はいいことがあったな、と相手を感じることは、気持ちだと思う。目をみて話すとは、政治的判断をさすのかもしれない。
気分は自分の感情を大事にする。それを、個性だと勘違いしている。
個性は、今ここにいる自分が、今までの自分の人生の答えで、それが個性とよばれるものだ。
その気分を、相手にも押し付ける。しかし、気分と言うものは、どんなものでも、たばこ一服で消えてしまうほどのものだ。
抑圧しにかかる、命令する、欠点を指摘する。
一挙手一頭足をあげつらい、指示する。それらは、相手の気分そのままに、言われた自分もその気分になりさがる。

気分で生きることが少なく、気持ちが優先している人のことを、謄謄任運、のほほんとしていることだと考えている。
現代は、高速道路を運転しているように、緊張して生きなければならない。肩に力が一日中入っている。その隙間に気持ちをいれる方法を取り入れるしかない。養老せんせいが、サラリーマンに向かって、一日15分でも自然を眺めるとよいと言う。

気分は動物的、気持ち優先になって人間になれる。
理性は、人間的であるところと、動物的であるところがある。

気持ちの下の層は「気」ではないかと思う。
「気」について広辞苑では、
「天地間を満たすと考えられるもの、また、その動き。
生命の原動力となる勢い。
心の動き、状態の働きを包括的に表す語。
はっきりとは見えなくとも、その場を包み、その場に漂うと感ぜられるもの。
その物本来の性質を形作るような要素。」と書いている。

人の、いちばん底の層には、僕は、気といい霊性といえるものがあると考えている。
「霊」をひくと、
「肉体にやどり、または、肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい、霊魂。また、はかり知ることのできない力のあること、目に見えない不思議な力のある事」とある。

僕たちは宇宙の微小な一部分だけれど、その宇宙と同じだと感じる感性を誰でも持っている。
それが何かと考えたことがある。
電気的な、質量を持った宇宙の塵によって生命が形作られた。
その記憶が僕らに宿っているため、宇宙との同一感が得られると思っている。
「気」そのものは、こういうものだと端的には指摘できないが、そういうものではないかと思っている。
海を見、月や星を見て懐かしいなーと思う。そのことだと思う。


良寛さんは、制度と道徳から離れて生活した。
世俗の中では、どうしても気分がわきおこる。
気分で生活しなくてもいいように、気持ちだけで生活できるように、自分で図ったのだ。
臨済禅も曹洞禅も、「気」をつかむ修行をする。
座禅を組み、修行にあけくれ、気と一体になることを理想としている。
良寛は曹洞宗から離れて、僧でもなく世俗でもない生活を生きた。もみじを歌い、鹿の声をきいたが、
良寛にもそれらしき句がある、
                
   淡雪の中に立ちたる 三千大千世界(みちあふち)  またその
   中に淡雪ぞ降る

     空に満ち溢れた雪とその中に溶け込む良寛の姿。

良寛は気持ちと気とのあわいで生きていこうとしたのだろう。
雪のうつくしさ、見入ってしまう魅力は、三千大千世界(宇宙)の使者と感じることに始まるのかもしれない。

また、小説でも映画でも、物語の始まりや途中に風景描写が入るが、これは、状況設定に必要で入れるだけでなく、「気分」で進んでいく物語に、「気持ち」や「気」を容れることで、物語の奥行きを演出する効果があると思う。

「気」「気持ち」「気分」と考えているとき、
数学者、思索者である岡潔の「我が人生観」に、

「生命というものはメロディに他ならない。人はその人固有のメロディがあり、これを、保護するために周りをハーモニーが包んでいる。メロディーは人の中に閉じ込められているのではなく、エーテルのように時空に満ちている。
常日頃にあると思っている自分を小我といい、弱めることは出来ても、取り去ることは出来ない。その自分を消し去ったところに、本当の自分の真我がある。
真我が自分だとわかると、悠久感が伴い、春の季節感が伴う。これが、生命でありメロディである。」と書いている。
自分を消し去るとは、数学に没頭しているときのことだから、そんなに不可能なことではない。遊びでも、趣味でも没頭しているとその時間はやってくる。
気分が、小我に当たり、気が、真我ということになる。
宇宙の最初にはメロディーだけがあったと言う人がいる。
小高い山の上からでも、キラキラと輝く星々を眺たとき、かすかなメロディーを感じたことがなかったでしょうか?
そして、宇宙のメロディーが、個に入って個別性として鳴り響く。
他者と対面する時、気持ちで相手を思い、気で、相手のメロディーを感じる、そういうことができるといいなと思います。
映画「神様メール」に、わがままな神様の子供が人々の救いに街に降り立ち、あなたのメロディーはヘンデル。あなたはパーセルと告げるシーンがありました。いいお話です。

また、岡潔は、
「数学の研究は、自我を抑止して大自然の働くにまかせることだ。それが、こころの悦びとなり、その時、純粋直観があらわれる。自我本能を抑止して自我さえ消し去れば、不快感や嫌悪感が消えて、快不快ではなく、こころの悦びがあらわれる。」と書いている。
気分は、不快感や嫌悪感をおこすが、気や気持ちでは、悦びがあるという。

僕の場合、家族間では気分に負けやすいが、ほかでは、気持ちで接することができると思っている。気持ち優勢に会話していると、相手が、気分の人か、気持ちの人と解るようになる。こちらが、気持ちであると、徐々に相手も気持ちに変わるともいえる。が、家族は難しい。
                  近藤蔵人
     

    
     

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