2018年5月10日木曜日

我慢な毎日

山の家を売却することにして、僕は伊勢崎の自宅の一階に住まいを移した。
さすがに、静かな木立の中に住まっているときとは違って、すこし、うろたえているが、それも仕様がないだろう。
今は、自分の部屋に、音楽と映画を見る方法を考え中で、未だ落ち着かない。
10帖ほどの一部屋に、ベッドとオーディオ装置と、本箱とその他もろもろが入ることになった。
5月の連休からの移動だから、片付けは、終わらず、仕事が引けてから思案し続けている。
本を読むソファとライトはセットしたが、スクリーンが取り付け終わらないと完成しない。
山の家に通っているときには、夜食を伊勢崎で食べ、急いで帰って山の家で映画を見ることが日課となっていた。
伊勢崎では、毎朝、3時、4時に目がさめるとベッドの中で新聞を読み、読みかけの本を読む。
ロレンスの旅日記「海とサルディーニャ」、吉本隆明の「親鸞」と「良寛」が、枕元にねころんでいる。
寝ながら読める読書器をしつらえ、それには白洲正子の「わたしの古寺巡礼」が置かれ、ロレンスと吉本隆明とが、いつでも読めるようになっている。その上、五味康祐の「西方の音」がベッドの横の机の上にある。気が向いた本がいつでも読めるということだ。

世の中には島好きが時々いて、ロレンスの「海とサルディーニャ」もそのことにふれて島好きだが、日本では若かりし頃に遊んだ紀州の小島の桜の木のもとに手紙を置いて生涯夢を記録した明恵も島好きで通っている。
ロレンスも明恵も僕も島好きで、僕は多くて年間7回時間が出来れば粟島に通うことになった。

吉本隆明は最後の親鸞でやさしく丁寧に記述して、かつての難解な文章から脱して、いやに読みやすい。吉本は亡くなる前に話し言葉で随筆風に書いている。
古寺巡礼は戦前、戦後の奈良近辺の記述である。それらが、ベッドの周辺に置かれている。

西洋の音には、五味康祐が、日本のオーディオ業界の草分けとして、輸入物のオーディオの説明があり、たのしく読める。

島好きの僕が日本海の孤島粟島に釣りに通って、早30年の歳月が過ぎている。
本土と高速船で1時間ちょっとだが、佐渡ガ島の北にあり、本土の新潟村上市の北の岩船港から、一日数本出船している。
粟島に船が付くのは、北東の内浦という港一か所に大型船が付き、南にある釜屋漁港は、漁船しか停泊できないこじんまりとした港だ。
初めは、内浦の大きな沖にある堤防で釣っていたが、歩いて行ける磯で真鯛が釣れると聞き、釜屋の民宿を探して泊まることになった。僕たちの釣りの狙いは真鯛一本に絞っていた。
最初の日に、磯靴を民宿の前のベンチで履いていると、可愛い女性が、アラそんな恰好で釣りですか?と声を掛けられ、そののちは、その彼女の民宿市左衛門で泊まることにした。美しいことに弱いのでこれも仕様がない。
そののち解ることになるが、内浦では、名字が定まらないが、釜屋では、松浦姓と渡辺姓がほとんどで、彼らが、北九州のまつら、松浦半島からの出自のようで、彼らを調べると源の綱の血筋で、大阪河内で、渡し守を一手に引き受けていた渡辺一族の末裔と知れる。孤島は血が混ざらず、純潔を保てるようで、男女関わらず美形が多いように観察できる。かつては、内浦と釜屋に一生行き来をしない人もいたようで、人種が異なるとも考えられる。語彙の違う言葉を使っているとも聞いた。本土新潟では、粟島の住人を、かっこよく美形が多いと風土記にかかれている。天皇家の血筋で、混血が少なく、そのため体形が残ったのだと考えられる。
そんな女将のいる民宿が、僕らの定宿になった。
フランス料理のシェフや大沢親分と同行し、市左衛門で知り合った東京に住む大谷さんは市左衛門の番頭さんと呼ばれるほど通い、昨年すい臓がんで先に逝ってしまった。大沢親分と言ってもやくざの親分ではなく、気性が親分ぽいのでそう呼んでいるだけである。大谷さんの手を握り、声をかけるとわかってもらえて、家内と最後の挨拶もできたと思う。
山の家を引き払い、伊勢崎に落ち着くまでは、いろいろなことを回顧して、旧習を懐かしんで、居心地の落ち着かなさを、我慢することにしようと思う。


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