2017年8月4日金曜日

家族


家族

 

友人は、怒ったとき「ふざけんじゃーねー」と声が出るそうだ。

先日、間違って倉庫に閉じ込められた嫁さんが、戸をしめた祖母に「あやまれ!あやまれ!」と怒鳴り、動転した祖母が脳卒中で倒れて入院したと聞いた。

友人の「ふざけんじゃあねー」は、学生時代に覚えた可能性もあるが、父親に言われた言葉として使っているのだと思う。

「あやまれ!」は、父親か母親に、首根っこを押さえられたときに聞いた言葉ではないだろうか。

子供は自然に嘘を覚える。

本当のことを言えば、怒られるに決まっているから、嘘と見破られる言い訳をすることはよくあることだ。そのことに、あやまれ!と怒鳴ったのだろう。

悪いことをしてそのうえ嘘をつくとはどういうことだ!と親は、子供を正そうとしたのだろうが、長じて、カチンと来たときに使うほど脳裏に焼き付いている。

そのシーンが目の前に現れる。

畳に擦りつけられた子供の頬はゆがみ、乱れた髪の首元を、大きな親指と人差し指で押さえつけられている。

子供はそれでもあやまらない。親の手に力が入る。

宙を蹴る足、体をねじってもがくがどうにもならない。

押さえつけられたくやしさの涙をぬぐうこともできず、身動き出来なくされていることへの怒りの表情が著しくなる。

しかし、最後には、あやまらない子供に親は拳固で頭をはたくか、押し入れにいれとけ!とはきすてるように言ってあきらめるだろう。

子供は、数時間もすれば小さな声でごめんなさいとあやまる。このままでは、この家族の中生きていくのが大変になると解って謝るのだ。

虚弱体質の子は、大声で怒鳴られた瞬間にこころが萎縮し、どうすればいいかわからなくなる。エネルギーに満ちた子は、親をにらみつけ嘘を通そうとする。

「ふざけんじゃあねー」は、そう被害がでないだろうが、「あやまれ!」には悲痛な感情が潜んでいる。どこで間違ってこのようなことになったのだろうか。

 

うちでも騒ぎがあった。

アデノイドを腫らした花ちゃんが、お医者からもらったカプセルを飲み込めないで、「飲んだらのどにつまって死んじゃう。死んだっていいの!」と泣き叫んだ。ママがカプセルを割って粉を飲ませようとしても、「のどにひっついて飲めない!」と言う。カプセルはこんにゃくゼリーに詰めて飲ませようとしたのだから、いつもはかぷっと飲み込んでいても、カプセルの入ったゼリーはかさが増えて飲み込みづらいようだ。その後、粉にしても花ちゃんは怒りが収まらず、飲まないといいつのっている。

ママは「コンクールがあるんだから、熱が出たら出れないよ」と二日後のバレエのことを心配して飲ませようとする。

「それじゃあバレエは無理だね」と、横から祖母が言う。

うわーとあおむけの姿勢で泣きじゃくる。

「そんなことでどうするの。薬ぐらい簡単に飲まないでどうするの!」と本気になって祖母が怒り始める。花の左腕がつっているのか、けいれんしているように見える。

「それじゃあ、コンサートは出れないね」と花の神経にさわることを言う。

「わたしに、バレエをさせないとは、死ねということ!」と祖母に向かって花が言う。

「バレエができないと、私には死ぬことと同じだ」と続けて言う。

腕がつっているようなので、僕は花を抱きかかえ起こしてさすってやる。

小さな声で「言っているだけなんだから気にしないでね」「口が悪いのは知っているでしょ」と、耳元で言うが、まだ泣き止まない。

僕にはその場を押さえる能力がない。と言うか、何度もやり合ってけんかにしかならないので、口出しすることを押さえている。だから、花の腕をさすって、小声でなだめるしかない。

思い出すに、子供のころ、両親にどやされた覚えがない。言い合いをした経験もない。兄弟が5人いるので、不穏なことがあっただろうが口喧嘩をした記憶はない。

ひるがえって、家内の家では、感情をそのまま表す言葉づかいが普通のことだ。

経験が違いすぎる。言い合いをして勝てるわけがない。

花もママも家内の家庭での言葉づかいが普通になっている。

しかし、この場面で大切なことは、花に薬を飲んでもらうことだ。

粉にしてみたり、飲み込むことが出来るようにこんにゃくゼリーに入れたことも、薬を飲んでもらう為の行為だ。何も神経を逆なでしたり、感情を表すことではない。

最初は見ていないが、多分花はこんな大きなカプセル飲めないと言ったのだろう。ママは、それならこんにゃくゼリーは簡単に飲み込むのでそれに詰めたのだ。はからんや、容積が増えて花の口の奥でこんにゃくゼリーが詰まってしまった。花は怒りを表し「死んじゃう」と言ったのだろう。やり取りしている最中も、口の中につまってもぐもぐさせていた。

それを吐き出させて、粉の薬を出せば、落ち着いたときに飲んだだろう。実際に最後には粉の薬を飲んだのだから。

ただ、それが出来れば、こんな騒ぎにならなかった。

 

欧米の映画を見ていて思うに、家族間の言葉でけんかになることは日本も同じだが、彼らの言い合いは、言葉の本来の意味や内容での口喧嘩が多いと思う。日本では、言葉の意味ではなく、言葉を発する時の感情を感じて、意味で返すのではなく、同じく感情で返すことが多いように思える。

例えば、母親に向かって子供が「うるさい!」と怒鳴る場面。

母親は、こうしなさい、ああしなさいと子供に言うことを聞かせようとする。毎度のことなので子供は、聞き流している。子供が意図に反するので母親は、顔色を変えて大声を出す。その時子供が「うるさい!」と同じように大声で叫ぶ。

しなさいと言うことに、子供は理由を述べて説明することもあるだろうが、大声で怒鳴る親には、大声で返す。日本語で「うるさい」が「うるせえ」となり「うるせえんだよ」と言い始めると、親は「その口の利き方はなんだ!」と怒鳴ることになる。

要するに日本語では、意味を考えて対処するより、口の利き方が問題になることが多い。そして「親に向かって、その口の利き方はなんだ!」と親の権威を振りかざす。

その後その家は修羅場と化すだろう。

親が、注意しなければいけない場面はたびたびあるが、日本語で「頭ごなし」という言葉があるように、頭ごなしに注意するのではなく、相手の気持ちが解らなくても、尊重して話しかければ、問題は相当減少すると思う。怒るときはガツンと怒って引き伸ばさないことだろう。
良寛が、人の顔を見つめて話しをしてはいけない。人の顔色を見て話さなければならない、と戒語を記している。顔色を見るとは、相手の状態を観察して、ここでこの言葉は言わないほうがいいと判断するためだ。出てきた感情のままに話してはいけないということだ。

家族間の問題がなければ、人生の幸せの7.80%は達成すると言われている。

相手を自分の思い通りに動かそうとする感情を、日本人の文化的癖ととらえて見直すことなのだろう。

吉本隆明は、家族の問題を解くことは、政治や経済より困難な作業だと言う。

700億人のそれぞれの癖があり、それぞれの家族の文化が、それぞれ普通と思って過ごしている。他者を理解できないのは普通のことである。

爺さんが無口で怒りっぽいのは、常日頃、家族のそれぞれの癖に我慢を重ねて、ときどき堰が切れるのだ。爺さんは、話せば解るという子供の幻想は持っていない。ただ、修羅場を減らすには、我慢することだと、長年の経験からわかったのだ。

 

花は、まだ4年生だから反抗も微弱だが、中学、高校と大きくなってこのままだと、アルカイックスマイルの弥勒菩薩ではなく、仁王さんを秘めた子になってしまう。

3年生の時「おこりんぼうだから、奈良の仏さまを見て、私もやさしくなりたいの」と言うので奈良に行き、4年生でも、回りきれなかったお寺廻りを計画しているが、育ちの中でつちかわれた癖を、意志で克服することは苦難な作業となるだろう。
先日も、爺ちゃんが花のそばにくっつくと、「やめて!」と怒るので、もう少し引っ付いてみた。すると、仁王さんのような顔をするので、すごい顔と言うと「てめえのせいだよ!」とおどろく語彙が出てきた。男言葉も女言葉も、下品な言葉も、知っている年代だろうが、この言葉を使ってみたかったのだろう。爺ちゃんは大人の言葉は、ズキッとするが、子供たちの言葉には、なぜか平気でいられる。

弟の文哉がサッカーのコーチが「こうしろ、ああしろとうるさい」と愚痴をこぼした。この子は、エネルギーが充満していて、自尊感情も強く、婆ちゃんの言うことは素直に聞くのに、爺ちゃんの言うことにはすぐに反発する。サッカーで遊び、将棋を指し、虫取りし、爺ちゃんとダジャレ遊びをするので、同じ年代と勘違いしているはずだ。

子供たちは、小学生の間ぐらい遊びだけでいいように思っている。

夏休みに入って、花は、お婆ちゃんのやっていることみんなやってみたいと言い出した。包丁を使い、洗い物をし、洗濯を手伝い、掃除をし始めた。
今日の夕飯は何?と問うも「お楽しみ」と教えてくれない。これは、お婆ちゃんには、何ごとにも代えがたい幸せなことだと思う。買い物もレッスンにも、婆ちゃんの金魚のフンのように付きまとっているが、花は顔色が見えて、慎みがあるから、婆ちゃんの邪魔になるようなことは、言わないし、しない子と思う。

爺ちゃんの今までの楽しみが、婆ちゃんのところへ行ってしまった。じいちゃんは、ついに花に相手にされなくなってしまった。
 

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