2017年6月16日金曜日

自然の力


このところ、政治や国それによる個人のことを考えて、いろいろ文章にしたのだけれど、こと政治に関してブログはやめているので、書きっぱなしになっている。

そのため憂鬱になってしまって胃痛と下痢がおき、昨年の9月に起きた左足の半月板損傷が、足の力をなくし、ゆるいびっこになっている。総じて老人性倦怠症だ。

5月中頃、今まで聞いていたステレオを売り払い、僕と同年に作られたスピーカーを手に入れ聞きほれていると時間が狂ってしまい、20日間近く3時間睡眠状態になってしまった。

部屋に広がる音学を聞き、楽しんでいる間は恍惚としているのだけれど、疲れがひどくなって、聞く時間を少なくしても、3時間睡眠は癖になり、よけいに体調を崩してしまった。

山でノンだけと付き合い、日差しも少ない森の中で暮らしていると、街で寝泊りすることなど考えられないが、それでも、気分転換が必要と感じるようになった。

なれる、あきる、人は不幸せなことだ。

先週思い切って粟島に行くことにした。

びっこの足で、風に身体を持っていかれないかと心配するが、釣行の楽しみが優先している。民宿は、釣り師でいっぱいで磯渡しできないと言うが、泊まれればいい。

岩船からのフェリーは、強風と波のため立って歩くことがむずかしい。

船の中では、僕たちは熟睡したが、乗客は、揺れのひどさにビニール袋を持って嘔吐している人が何人もいる。

粟島に着くと昼ご飯を食べて、釣りの状況を船頭に聞くと、波高く釣り師全員キャンセル、宿の客は僕たち二人だけとのこと。

宿に荷物を降ろし、タイを狙って堤防の先端で竿を出す。岸辺では、アジやタナゴが釣れているが、僕は、沖目に浮子を漂わせている。時折小魚の当たりがあるが、この日は、4,50センチのイナダだけ。久しぶりの無我夢中の釣りに堪能した。

翌日、4時から籏崎の磯へ向かった。仲間を後ろに、すたこら岩場を進んでいる。足の痛さは、なんのその、早くポイントについて、早朝のいい時間に釣りをしたいと言う思いが、何物にも負けない意志であった。力が入らないと思っていた左足は、普段と同じ調子にもどったようだ。

岩場の先端で4時間集中し、緊張して竿先の当たりを感じていたが、小物しか釣れなかった。まあ、こんなもんだ。4時間の集中が、今日の一番の取柄であった。

 

養老孟司が「都会で苦しくなったら、原生林でⅠ週間でも暮らせば治る」と書いている。

毎日、足の力のなさを感じて、歩くのも面倒だったが、自然真っ只中の釣りは、思い込みを遮断する効力がある。

2,30年前、釣り好きの兄が、右の肩が50肩で、仕事にならないので休みがちだったが、釣りの幹事をしていたので、日本海まで仲間をつれていって会を催したそうだ。

帰って言うには、「チヌが2枚釣れた。」え?竿を振れたの?と聞くと。

右手で竿を持っても痛みがなかったそうだ。

ひどい腰痛も、心理的要因の場合があると言う。

苦痛な会社勤めの毎日も、自然は人を素の状態に戻してくれるのではないだろうか。

この憂鬱な社会情勢で、体調を崩す人は多いと思う。それほどにメンタルな面は体調に現れる。

 

そんな時、ペドロ・アルモドバルの、「ジュリエッタ」と、ジム・ジャームッシュの「誰のせいでもない」を続けて見た。

映画は映画の技法をふんだんに使って、過去と現在が交錯したり、次々と事態が変化したり、構成に緻密さを求める場合が多いが、この2作の映画を見て感じたことは、ごくオーソドックスな場面進行と、人の物語になっていることだ。

映画は、複雑怪奇で何なんだろう?と思わせながら終わるのが、良い映画であることが多い。解ってしまった映画は、底が浅くてつまらない。

この映画は、まるで、小津安二郎の映画の現代版のように感じる。技巧が目立たない。

2作とも、心に傷を負った人間の傷の深さとそれによる廻りの人々の影響、傷を負ったまま何年も過ごすことによって、人格形成される姿。この2監督は、指折りの作品で定評があるベテラン監督だ。その監督の落ち着き先が、こういう映画になったところに、感じるものがある。

人が生きると言うことに映画を捧げた監督の思考。

これは、日本でヒットした「この世界の片隅に」での主題と共通する。

政治も経済も、生きるには少なからず影響されるが、そんなことは主題にする価値はない。表現したいのは、誰でもおちいる人生の悲しさと宿命についてだ。とでもいう感じだろうか?

 

地球には70億の人間がいるが、70億とおりのすべてを表現することは不可能だけれど、ひとりの人間を、人類の普遍的象徴として描ければ、作品は成功と言える。この映画もそういうことでいい映画であった。

また、僕たちは70億の世界中の人と友達になることは出来る。

音楽が気持ちを表現することで、世界中の人たちと通じることができるように、人は、人と通じることは出来る。

しかし、国を優先に考える人は、自立、防衛、経済的野望を志向するから、敵対することが起る。

国は、コップや住宅のように、現存するものではない。あると思うことにしただけだ。その国が心配になると、誰でも国民を見下すことになる。国は全国民を目指して政治するべきで、国土や政府が最優先ではない。

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