2017年4月17日月曜日

マリリン・モンロー

マリリン・モンロ-のドキュメント映画を見た。

彼女の父親は生後すぐ失踪し、そのため祖母に育てられ、のちに孤児院にいれられ、そこで少女期を過ごした。
芸名のモンローは、祖母の苗字を取ったというから、祖母のところでは可愛いがられていたのではないかと思う。
マリリン・モンローが受けた唯一の愛情だったと想像する。

学校を卒業するまでに、自分は、有名になると決心したと言う。
歩き方の練習を欠かさず、声の出し方、表情の付け方など、女性の魅力を創造し、女優を目指した。
地方のカメラマンにヌード写真を撮ってもらい、主役をとる頃にハスラーか何か男性雑誌に無償で掲載される。
僕たちが脳裏に焼き付けた、布の上の全裸の写真のことだ。
映画のプロジューサーに、セックスを強要されても、私がやらなければ次の子がやり、その子が映画に出るなら私は平気と、だれでも寝る子と言われることも気にしなかった。
自分の美貌と身体で、一人っきりで、世界に立ち向かう意思を持っていた。
テレビの洋画を見て、マリリンが演技をしないシーンと、彼女が演技したシーンとの差が大きく、無口で、画面の片隅で佇んでいる姿が一番美しいと僕は見ていた。
僕たちが、いろいろなマリリンの映画を見るとき、あのヌードを前提に、可愛いいマリリンを見ている。
腰を振り振り歩くスタイルを作り上げ、表情もこれぞマリリンというものを作り、髪も金髪に染め、その男性向けの演技だけが彼女のとびぬけた魅力になったが、当然それらは、作り物だった。
TVに流れるインタビューでもそれで押し通し、僕たちは、作り物の彼女の笑顔を見て、魅力に翻弄されていた。
しかし、映画の初めに、ディマジオの腕を両腕で抱きしめ、寄り添って、甘えたいのに甘えられないというような表情の映像に、何とも悲しげな彼女の顔を見て、一瞬の気のゆるみで出てしまったのだろうさみし気な表情が、この映画をつくづくとみてしまう現因だった。
ディマジオともすぐ別れ、劇作家なら理解してくれると思ったのかアーサーペンと再婚するが、マリリンの主演映画の脚本に、いままでと同じように男性受けする主人公として自分を描く夫に失望し、彼女は孤独のふちに立たされる。

人は、自分を男とも女とも思っていない。人として思っているだけだ。
ちなみに同性と話していて、性を強調する人は、育った気質として癖がついたもので、ほとんどの人は、自分を男とも女とも思わないはずだ。異性と会話する時、相手を異性と意識しても、基本は人間として会話している。
吉本隆明が言うが、人は、セックスとしての人間と、共同体の一員としての人間と、内なる人間三層で成り立っているという。
異性を見た場合、セックスが時に脳裏に訪れるのは、人間として自然なことだ。親鸞が、いくら修行しても愛欲は捨てきれないと比叡山を下りた理由を述べている。
だが、あまりにも性的に魅力的な女性は(若くしてヌードになった写真が男性なら誰にでもセックスとしての彼女としてしか見られない理由だが。)マリリン・モンロー本人の魅力ではなく、セックスとして見られる存在になってしまったのだ。
ディマジオも、アーサーペンも彼女を人間としてではなく、女として見たのだと思う。(後年、ディマジオは、彼女を愛おしく思うようになるが)
彼女の孤独は、彼女自身が作った女の魅力と身体で、世界に挑戦する彼女自身の宿命となった。

自分の気分をノートに書き続けたものが死後発見される。
ノートには理解してもらえない苦しさが、書きつづられていた。
苦しい、苦しいと書き、誰に見せるでもなく、ノートだけが彼女の親友のように、乱れた字で書かれている。
もし、彼女が、その文章を様式に落とし込み、書くことができればよかったのにと僕は思わずにいられない。
戯曲でも、詩でも、小説でも。
様式に落とし込むとは、パラドクスだが、様式は自由を表現する装置となる。和歌でも俳句でも、様式に合わせて考えることで、自由な表現が可能となる。
彼女は、おバカ映画はやりきれなくて、シリアスな演技がしたくて、演劇学校に入り研究するのだから、孤独でもやれることがあったのではないかと思う。
しかし、そういうことを相談する友もなく、精神病院に入るも、すぐ退院し、睡眠薬がないと眠れなくなり、自殺か、飲みすぎて誤って亡くなったのか、謀殺されたのか、わからないと映画は終わる。

人は、個別的な人生を送るしか方法がない。
自分の育ちから、生き方を学ぶしかなく、誰でも自分の育ちが普通だと思っている。どんなに風変わりな人生でもそれが普通だと思う。
他人と交渉することによって、はじめて、自分は個別的だと知る。自分の意志を持って作ったものでないことに左右されて,生きることを知ることになる。
自分として作られたその気質に反抗するにしろ、従順に生きるにしろ、作られた原因に沿って生きるしかない。
思えば、自分は、自分で自分を作ったわけでない。
人々の与えられた人生は、その意味で平等であると考えられる。
エネルギー過多で生まれても、虚弱体質で成長しても、足が速く生まれても、記憶力抜群でも、のほほんとしていても、醜女で生まれても、美形で生まれても、何ら、自分に責任がない。
慾と得で人生を振り返ると、損をしているように見えるが、気持ちや気で眺めてみれば、人生が悲痛で、悲惨と感じても、それぞれの人生に自分の責任がないのだから、差はないと考えたい。
幼少期から14,5歳まで育てられた気質の上に、自分の生き方を自分なりに決めることができる。暗闇の中手探りであっても、手探りが大切なことで、理性を働かせて、脳髄が決めたことに忠実になりすぎると、マリリンのような悲劇が現れる。

だから、自分の運命と友人として付き合う方法しかないと思っている。






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