2016年10月4日火曜日

よもやま話(2)


 

来年4年生になったら、自転車に乗っていいんだって。

そうだよ。

じゃあ、おじいちゃんが自転車買ってあげるね。

たかいからサンタさんにお願いするよ。

サンタさんは、自転車作れないよ。自転車屋さんからどろぼうするの?

そうじゃあないよ!サンタさんは、魔法使いと同じだから、自転車を分身させて持ってきてくれるんだよ。

分身て?

自転車をコピーするんだよ。

そんなことができるんだ。と感心していると。

僕がどろぼうとか言ったものだから、

おじいちゃんは、何にも知らないんだから、と、冷たい目で見られた。

 

 

90才すぎても「まだ生きたい、死にたくない」と訴える人が多いと聞く。

苦労を重ね、楽しみを後回しにして、家族のために働き、夕餉の晩酌だけが楽しみの人生を過ごすと、それは、自分の人生を「生きてこなかった」からだと思うが、死にきれないのだと思う。渡辺京二が、人生は、煮えたぎった釜の淵で生活しているようなものだから、甲斐のある人生を送るべきでないか?と、何かに書いていた。歴史を見ていると、それぞれの人生は、平和な時は一時で、そういうものだと納得させられる。

気の合った親密な友人や知人とささやかなコミュニティーを作り、何か一生懸命になれるものがあればいいのだけれど。

 

 

 

国柄を最優先に考える人が何か変だなと思うのは、人間の研究をおろそかにしているからだと思う。だから、上目目線で人権なんか尊重していられないと言ってしまうのだ。

上目目線で話すことができるほど人間はえらくない。

イデオロギーを持つことも同じで、得体のしれない人類を、シンプルな考えでまとめ、他人にも強要することには無理がある。社会が徐々に変化することに任せるべきなのだろう。

ラッセルという哲学者が「若いころは数学をやり、中年になったら哲学をやり、老人になったら政治をやるのが正しい脳の使い方」と公言している。

 

 

 

人と付き合う時には、なめられるに限る。

すると相手は、本音を話してくれる。

孫が、おじいちゃんダジャレに命かけているでしょ?と言うので、

え!と恥ずかしそうにしていると、私はバレエだからと、なぐさめられる。おばあちゃんは家事に命をかけているし、ママは子育てに命をかけているし、弟はゲームに命をかけていると続けて話してくれる。
 

 

はなちゃんー、どうして奈良の仏像を見たくなったの?

春先に、「夏休み奈良に連れて行って」と言った孫に、奈良行の車の中で聞いてみた。

わたし、怒りんぼうだから、優しいお仏像の顔を見て、すこしでもやさしくなりたいの。

あまりにびっくりしたものだから、まだまだわがままで乱暴でもいいんだよ、というのを忘れてしまった。そういうことなら仏像を見てもらいたいのは、ばあちゃんとママだと思うんだけれど。

 

 

 

音楽を聴いていて、曲の出だしから悲しくて美しい調べが続くと、初めてでも感動するが、すぐにあきてしまう。

山登りをしているとして、遠くの景色や足元の花を見ながら、そんな風な何気ない曲想がしばらく続いていて、ふと、自分の孤独と、虚無を感じて立ちすくむ瞬間がある。視線は、宙を漂っている。しばらくして落ち着きをとりもどし、青い空や白い雲に気持ちが惹かれ、でこぼこの道を用心して歩きはじめる。ワンフレーズで表されるその瞬間、そんな風な曲が好きかもしれない。

 

 

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