2016年11月10日木曜日

鍋の淵





ドラえもんを見ると、スネ夫以外は、ごく普通の中流家庭の育ち。のび太にしてもジャイアンにしても、少しすましたしずかちゃんも、子供らしく生きている感じがするが、スネ夫は少し意地悪すぎるように演出されている。
昭和30年40年、外遊びしかできない子供たちが、生き生きとした表情で遊んでいたことを思い出す。そんな中、お金持ちの子は無表情で、とび回って遊んでいなかった。スネ夫のような子はいなかったと思う。下々の子と遊んではいけないと言われているのか、いつも小言を言われるからか、年中半ズボンで、隅っこでつまらなそうに見ていただけだ。
 孫に、のび太ってドラえもんを頼りすぎじゃあないと言うと、そう、ドラえもんがいるからのび太はバカのままと、そっけない。
 朝、犬の散歩で、通学する子供たちを相手に、「白線から出ると 交通事故になるし、カゼをひくよ」と注意する。皆どうして風邪をひくのといぶかしそうにしている。そこで「ハックセン!」とくしゃみのまねをする。一人二人、にやっとしても、そのほかは素知らぬ顔でいる。3年の間毎日会って洒落や冗談であいさつしていても、かつてのお金持ちの子供よろしく、無表情の子ばかりだ。
 渡辺京二先生が「生きるってことは、沸騰した鍋の淵にいるようなものだ。だから、甲斐のある人生を送って欲しい」と言っている。それぞれの人が、いきいきと生きる方法を考えて欲しいと言っている。
 日本が右傾化しようと、性格破綻者のアメリカ大統領が、何を言おうと、生活者には、どうでもいいことだ。津波は不意にやってくるし、考え抜かれた情報操作で政府に都合がいいことをされようと、我々は、甲斐のある人生を送ればいいのだ。かつての人々はそうして生きてきた。
 良寛さんのように「災難にあう折は、災難にあうが良く、死ぬるときが来れば、死ぬが良い」とは我々にはちょっと不可能だが、日々いきいきと、ときには煙草でもくゆらせて、苦虫をかみつぶした表情をやわらげることもできよう。

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